ザックの憂鬱
湯浴みを終えて、ザックは廊下を歩いていた。
ヴェイル領に来て、まだ数日。辺境の訓練指南と聞いて、正直、期待はしていなかった。王都の同僚たちには「貧乏くじですね」と笑われた。自分でも、半分はそう思っていた。
——存外、悪くないんですよね。
領主のガルド殿は無口だが、誠実な人だ。食事も宿も、丁寧に整えてくれている。訓練に集まる子たちも、素直でみんな一生懸命だ。
それに。
——あの子が、いる。
レイ君。領主家の次男。
思い出すのは、白い石を包んだ、あの淡い紫の膜だ。薄く、均一で、まったくブレがない。あの歳であの精度は、王都の魔法学院でもそうは見ない。
——コントロールだけなら、本当に。
だけなら、だ。
ザックは小さく息を吐いた。あの子の魔力量は、あまりにも少ない。才能の器と中身が、これほど釣り合っていない子も珍しい。
廊下の角を曲がったところで、当のレイ君と、ばったり出くわした。
「おや、レイ君」
「ザック先生。あの、今日はありがとうございました」
「いえいえ。体はどうですか」
「まだ、ちょっと重いです」
「でしょうね」
今日の身体強化で、この子は文字通り空になるまで走った。あの小さな魔力を、最後の一滴まで。無茶をする子だ、とは思う。だが、嫌いではなかった。
ふと、聞いてみたくなった。
「レイ君は、何か目標はありますか?」
「え?」
「魔法を学んで、何がしたいか。聞いてみたくなりまして」
レイ君は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……外の世界に、行ってみたいです」
「外の世界」
「ヴェイル領の外です。いろんな場所を、自分の足で歩いてみたい。ずっと、そう思ってました」
——ああ。
ザックは、すぐに返事ができなかった。
そういう目をする子だとは、思っていた。訓練場の隅で、いつも遠くを見ている。的よりも、その先を。
「……そうですか」
外の世界は、この子が思っているより、ずっと危ない。
魔獣が出る。盗賊も出る。街道を外れれば、飢えも渇きもある。そして荒事になったとき、最後にものを言うのは、結局のところ魔力の量だ。制御の技術は、魔力が空になった瞬間に意味を失う。
今のレイ君の魔力量では、盗賊や魔獣と戦うのは難しいと思う。
護衛を連れていれば大丈夫だとは思うが、ヴェイル領がそんなに金銭面で豊かだとは思えない。
——背中を、押してやりたいのですが。
才能は、ある。目も、いい。けれど。
——この子は優しい子です。死んでほしくない。
止めるべきか。夢を語る十二歳に、「あなたには無理です」と言うべきか。それとも笑って「いいですね」と流すべきか。困りましたね。
「ある程度は、戦えないといけませんね」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「……どんな修行をすればいいんですか?」
レイ君の目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
——ああ、この目です。困るんですよね、この目は。
嘘のない目で聞かれると、こちらも何か、ちゃんとしたことを言わなければいけない気になる。そして、こういう時に限って。
「そうですね……王都の騎士団では、訓練で腕が飛ぶことがあります」
——出た。
「え」
「それでも、すぐに魔法で繋いで、続きをやるんです。そのくらいの修行を積んで、ようやく外を歩ける、というところでしょうか」
——出ましたよ、私の悪い癖。
腕が飛ぶ事故は、年に一度あるかないかだ。しかも繋いでそのまま訓練を続けた者など、あの脳筋騎士団長くらいしか知らない。
訂正するなら、今だ。今しかない。
「……そう、なんですね」
レイ君は、真剣な顔で頷いていた。
「え、ええ。まあ、あくまで王都の話ですが」
——訂正、できませんでした。
「ありがとうございます。おやすみなさい、先生」
レイ君は深く一礼して、自室のほうへ歩いていった。その背中は、来た時よりも真っ直ぐに見えた。
ザックは、その場に立ち尽くした。
——なぜ、あんな話をしたんですか、私は。
怖がらせて諦めさせたかったのか。それとも、発破をかけたかったのか。自分でも、分からなかった。
ただ一つ分かるのは、あの子はたぶん、今の話を真に受けたということだ。あの真っ直ぐな目は、そういう目だった。
……まあ。
ザックは、のろのろと歩き出した。
——あのくらいの覚悟がないと、外は歩けない。それ自体は、嘘ではありませんし。
言い訳のように、心の中でそう呟く。
——それに、あの子の場合。
魔力が少ないなら技術で生き延びるしかない。だとすれば、常識的な基準で修行をしていては、きっと足りないのだ。
——腕が飛んでも続けるくらいの基準で、ちょうどいいのかもしれませんよ。ええ。
そうやって自分を納得させながら、ザックは自室の扉を閉めた。
その夜、彼が寝つけたのは、だいぶ遅くなってからだった。
ここまで読んで頂きありがとうございました!




