もう一食だけ
気がつけば、皿は空になっていた。
レオナはしばらくの間、その皿を見つめたまま動けなかった。
これほど夢中になって食事をしたのは、いつ以来だろう。
食事は任務の合間に流し込むものだった。
味わう余裕など、一度もなかった。
お偉方と食事の機会が無かったと言えば嘘になるがその食事はどれも冷めていて今の様に夢中になることなど到底ありえなかった。
「お粗末さまでした」
ケンジが穏やかに頭を下げる。
「お粗末……?」
レオナは苦笑する。
「こんな料理を出しておいて、その言葉は似合わないな」
「料理人の癖みたいなものです」
「変な癖だ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その空気に、レオナ自身が少し驚く。
初対面の男と笑い合うなど、ありえないことだ。
今日はありえないことだらけだ。
「あ、いけない!大事なものを忘れていました」
そう言ってケンジは急いで厨房へ戻る。
そしていそいそと戻ってきた。
「大事なものを忘れていました。食後のお茶です」
ケンジは湯気の立つ白い湯呑みを差し出した。
ほのかに香ばしい香りが漂う。
「これは?」
「ほうじ茶という名前のお茶です」
恐る恐る口をつける。
熱い。
だが、不思議と落ち着く香りだった。
口の中に残っていた肉の余韻を優しく洗い流し、胸の奥まで温かさが染み渡っていく。
「……これも美味しいな」
「ははっ、気に入ってもらえてよかったです」
ケンジは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、こちらまで肩の力が抜けていく。
戦場では見たことのない笑顔だった。
「そういえば」
ケンジが思い出したように口を開く。
「まだちゃんと自己紹介をしていませんでしたね」
「ああ」
「僕はケンジです。日本という国で料理人をしていました」
「ニッポン……やはり聞いたことのない国だな」
「たぶん、この世界にはありません」
「この世界?」
「気が付いたら森の中にいまして……。恐らく異世界から来ました」
一通り異世界から来たという話をした後、レオナは静かに頷いた。
荒唐無稽な話だが、異世界から来たというのもこの食堂を見れば疑う気にはなれなかった。
「私はレオナ・ラインハルトだ。だが今は騎士を辞めた身。だから今はただのレオナだ」
それだけ告げる。
姓など……もう名乗る資格はないと思っていたからだ。
「レオナさんですね」
「さん?」
「あ……敬称です」
「そういう文化か」
「はい」
レオナは少しだけ口元を緩めた。
呼び捨てにされるより、不思議と心地よかった。
そのとき。
ぐうぅぅ……。
また腹が鳴った。
「…………」
「…………」
店内が静まり返る。
レオナはゆっくりと目を閉じた。
「わ、忘れろ……!」
「無理です」
「今すぐ忘れろ」
「さっきあれだけ食べたのに」
「あ、あんな量食べたうちに入るか!」
珍しく声を荒らげる。
するとケンジは吹き出した。
「あははっ」
「笑うな」
「すみません。でも……」
ケンジは優しく笑ったまま言う。
「ちゃんとお腹いっぱいになるまで食べましょう」
その一言に、レオナは言葉を失う。
お腹いっぱい。
そんな当たり前の言葉が、どうしてこんなにも胸に響くのだろう。
今まで誰もそんなことを言わなかった。
戦えるだけ食べろ。
動けるだけ食べろ。
急いで詰め込め!
それが当たり前だった。
だから――。
「……変な男だな」
「また言われました」
「今度は褒めている」
「あ、ありがとうございます?」
ケンジは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見ていると、不思議と悪い気はしない。
むしろ――。
もう少しだけ、この店にいてもいい。
そんなことを思ってしまう自分がいた。
店の外では、夕日が森を赤く染め始めていた。
ケンジは窓の外を見ながら呟く。
「今日はここで休めそうですね」
「この店で寝るのか?」
「宿がありませんから。野宿よりはマシでしょう?」
「……そうだな」
レオナも外へ目を向ける。
日が落ちれば、この森は魔物の縄張りになる。
野宿をするには危険すぎる。
だが、この食堂なら壁も屋根もある。
何より――。
「私が見張りをしよう」
「え?」
「魔猪料理の礼だ」
「あれは助けてもらったお礼です」
「じゃあほうじ茶の礼だ」
「そんな、悪いです」
「違う」
レオナは首を横に振る。
「この店は、お前にとって大切な場所なのだろう」
ケンジは少し驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。
「はい」
「なら、今夜くらいは私が守る」
その言葉は、無意識に口をついて出ていた。
誰かを守ることは、もうやめたはずだった。
それなのに。
この不思議な食堂だけは、失わせたくないと思ってしまった。
レオナは小さく息を吐く。
(……本当に、お人好しはどっちなんだ)
そんな独り言は、夕暮れの森にそっと溶けていった。
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