思い出の食堂
女性の腹の音を思いっきり聞いてしまった。
(な、何か話題を変えなければ……)
「あ、あの……私はケンジと申します」
「ケンジ?」
「はい」
「姓は?」
「え?」
「家名はないのか?まぁ貴族には見えんがな」
「あ……えっと」
異世界だ。
桜庭なんて言っても通じるのだろうか。
「えーっと、あの……桜庭……ケンジです」
「サクラバ?」
「一応姓です」
「妙な響きだな」
「よく言われます」
「私はレオナ・ラインハルト。レオナで良い」
レオナが少し興味を持つ。
「どこの出身だ」
「日本です」
「聞いたことがないな」
「でしょうね」
「小国か?」
「たぶん……かなり遠いです」
「なるほど」
(いや、説明できない……)
「武器は?」
「ありません」
「護衛は?」
「いません」
「荷物は?」
「スマホだけです」
「……その黒い板か?」
「携帯電話です」
「?」
「遠くの人と話せる道具です」
「魔道具か?」
「違います」
「……」
(気まず過ぎる……)
「レオナさんは冒険者ですか?」
「違う」
「では傭兵?」
「違う」
「もしかして騎士とか?」
少しだけ間。
「……昔はな」
「こんな森を一人で?」
「慣れている」
「怖くないんですか?」
「怖いぞ」
「え?」
「だから鍛えた」
【レイナside】
(妙な男だ)
服装も。
言葉遣いも。
腰に武器もない。
それなのに、魔猪を見ても腰を抜かさなかった。
いや。
腰は抜けていたか。
だが目だけは違った。
何かを観察する目だった。
森を渡る風が、木々の葉を優しく揺らしていた。
魔猪の亡骸の前で、レオナは膝をつく。
迷いのない手つきで短剣を抜くと、首の断面へ刃を入れ、胸を開いた。
ケンジは思わず目を逸らしかける。
だが、料理人として食材を扱ってきた経験が、それを許さなかった。
命をいただく。
その先に料理がある。
だから目を背けてはいけない。
そう教わってきた。
「……何をしているんですか?」
「魔石を取り出している」
レオナは淡々と答える。
血に濡れた手でビー玉ほどの青白い石を取り出すと、水晶のように光を反射した。
「これが魔石だ。このサイズだとそこそこの金になる」
続いて大きな牙を二本抜き取り、革袋へ放り込む。
それで作業は終わりだった。
「……肉は?」
「置いていく」
「え?」
「欲しい素材だけ持ち帰る。肉は魔物や獣が片付ける」
あまりにも当然のように言われ、ケンジは思わず魔猪へ視線を向けた。
見事な体格だった。
肩から腿にかけて筋肉がしっかりと付き、脂の乗りも悪くない。
(もったいない……)
その一言しか出てこない。
レオナは肩をすくめた。
「なんだ?食べたいのか?食べられなくはないが、不味いぞ」
「そうなんですか?」
「臭みが強い。筋も多い。好き好んで食う奴はいない」
ケンジはしゃがみ込み、魔猪を観察する。
毛並み。
筋肉の付き方。
首元の切り口。
すると突然、頭の奥で何かが弾けた。
――分かる。
自然と分かる。
どこへ包丁を入れればいいのか。
どの筋を切れば肉を傷めないのか。
血抜きの方法。
内臓の位置。
毒の有無。
熟成に適した温度。
火入れの時間。
まるで何十年もこの魔物だけを捌き続けてきたかのような知識が、一瞬で頭の中を埋め尽くした。
「……これが、解体スキル?」
思わず呟く。
「何だ?」
「あ、いえ……」
説明できない。
けれど確信だけはある。
「この魔猪、多分美味しくできます」
レオナが怪訝そうに眉をひそめた。
「本気で言っているのか?」
「はい」
「魔猪だぞ?」
「はい」
「今まで食べたことは?」
「ありません」
「調理したことは?」
「ありません」
「……」
沈黙。
やがてレオナは深くため息をついた。
「料理人というのは、皆そんな顔になるのか」
「え?」
「その目だ」
言われて初めて気づく。
自分は魔猪ではなく、一つの食材を見つめるような目をしていた。
厨房で、新鮮な魚を前にした時。
市場で立派な牛肉を見つけた時。
あの時と同じだった。
「すみません」
「謝る必要はない」
レオナはそう言って腰の革袋を外した。
「腹は減ってるか?見た感じ食べ物は何も持ってないんだろう?」
取り出したのは、草履ほどもある干し肉だった。
「食べろ」
「ありがとうございます」
受け取る。
硬そうだ。
いや、見た目以上だった。
恐る恐る噛みつく。
――ガッ。
「っ……!」
歯が立たない。
両手で押さえ、力いっぱい噛んでようやく小さな欠片が取れた。
塩辛い。
噛めば噛むほど塩しか出てこない。
肉の旨味は、ほとんど感じられなかった。
「……どうだ?」
レオナが尋ねる。
少し期待しているようにも見えた。
だから正直に答えるべきか、一瞬迷う。
「その……」
「言え」
「料理人としては、ちょっと……」
「そうか」
意外にも怒らなかった。
むしろ苦笑に近い表情を浮かべる。
「だろうな」
レオナも一口かじる。
何事もないように飲み込んだ。
「戦場では腹が満たせれば十分だからな。食事の時間を楽しむ間があれば剣を振るう。それが騎士だ」
「毎日ですか?」
「ああ」
それを聞いて、ケンジは言葉を失う。
毎日、この食事。
料理人として想像するだけで胸が苦しくなる。
食事は、ただ生きるためだけのものではない。
嬉しい時も。
悲しい時も。
誰かと笑い合う時間も。
料理は、そのすべてを彩るものだと信じてきた。
だから。
「……もったいない」
自然と口から漏れた。
「何がだ?」
「こんな立派な食材があるのに、美味しく食べられていないなんて」
レオナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく鼻で笑う。
「変わった男だ」
「よく言われます」
ケンジは苦笑する。
「どうせ作るなら、美味しいものを作りたいです」
その言葉を口にした瞬間。
頭の中に、あの日の光景がふっと浮かんだ。
まだ幼かった自分。
父に連れられて初めて入った、あの小さな食堂。
木の扉を開いた瞬間に鳴った、優しいベルの音――。
その懐かしい音色が、記憶の奥で静かに響いた。
──カラン。
小さく澄んだ音だった。
耳で聞いたわけではない。
記憶の奥で鳴った音だ。
ケンジはゆっくりと目を閉じた。
あの日の景色が、驚くほど鮮明によみがえる。
まだ小学三年生だった頃。
料理人だったわけでも、料理に興味があったわけでもない。
ただ、父に手を引かれて歩いていた。
その日はオレの誕生日だった。
「今日は好きなもの食べようか」
珍しく仕事が早く終わった父は、少し照れくさそうに笑っていた。
連れて行かれたのは、大きなレストランではない。
駅前の路地裏にひっそりと佇む、小さな洋食屋だった。
木製の扉。
ガラス越しに見える暖色の灯り。
入口には「本日の日替わり」と書かれた黒板。
扉を開けると、カラン、と優しいベルが鳴った。
「いらっしゃい」
白髪交じりの店主が笑う。
店は広くなかった。
カウンターが六席。
四人掛けのテーブルが三つ。
決して豪華ではない。
それなのに、不思議と胸が温かくなる場所だった。
厨房から聞こえる包丁の音。
フライパンを振る音。
ぐつぐつと煮込まれるシチュー。
バターが溶ける香り。
ケチャップの甘酸っぱい匂い。
そのすべてが、子どもの心を躍らせた。
運ばれてきたのは、大きなオムライスだった。
黄金色の卵。
真っ赤なケチャップ。
横にはエビフライ。
サラダ。
湯気の立つコーンスープ。
「いただきます!」
一口食べた瞬間の感動は、今でも忘れていない。
思わず笑顔になった。
「おいしい……!」
向かいで父も笑っていた。
「そんなにうまいか」
店主も厨房から顔を出して笑う。
「坊主、その顔が見られりゃ料理人冥利に尽きるなぁ」
料理人。
その言葉が胸に残った。
誰かを笑顔にできる仕事。
こんな仕事があるんだ。
その帰り道。
父の手を握りながら言った。
「ぼく、大きくなったら料理人になる!」
父は少し驚いたあと、優しく頭を撫でてくれた。
「あぁ、なれるさ」
あの一言が、どれだけ嬉しかったか。
高校を卒業し、料理学校へ進み。
何度叱られても。
火傷だらけになっても。
辞めたいと思ったことは一度もなかった。
全部、あの食堂があったからだ。
ケンジは静かに息を吸う。
(あの食堂……)
思い浮かべる。
木の床。
少し年季の入ったテーブル。
磨き上げられたカウンター。
厨房の配置。
棚の位置。
包丁立て。
寸胴鍋。
冷蔵庫。
蛇口。
窓から差し込む柔らかな光。
一つひとつ、丁寧に。
大切な思い出をなぞるように。
そして、小さく呟いた。
「──異世界食堂」
何も起こらない。
……ように見えた。
次の瞬間。
足元がわずかに震えた。
「っ!?」
レオナが即座に剣を抜く。
周囲を見渡す。
「魔物か!」
違う。
木々がざわめき始める。
風もないのに枝葉が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立った。
白い光が地面から立ち上る。
まるで霧が形を持つように、少しずつ輪郭ができていく。
木造の壁。
大きな窓。
煙突。
赤い暖簾。
黒い看板。
やがて最後に、木製の扉が音もなく姿を現した。
森の中に、一軒の食堂が建っていた。
「なっ…………」
レオナは言葉を失う。
魔法なら何度も見てきた。
だが、建物そのものを生み出す魔法など聞いたことがない。
「お前……何をした?」
「ぼ、僕にも分かりません」
オレ自身、震えていた。
夢ではない。
本当に存在している。
恐る恐る扉へ歩み寄る。
取っ手を握ると、不思議な懐かしさが手のひらに伝わってきた。
ギィ……
扉を開く。
カラン。
あの日と同じベルが鳴った。
「……」
思わず涙がこぼれそうになる。
店内は、記憶そのままだった。
磨かれた木のカウンター。
四人掛けのテーブル。
少し色褪せたメニュー札。
壁の時計。
店主が立っていた厨房。
全部、あの日のまま。
違うのは、一つだけだった。
厨房の棚には、見慣れた調味料が整然と並んでいる。
醤油。
味噌。
みりん。
料理酒。
砂糖。
塩。
胡椒。
冷蔵庫を開ける。
牛肉。
豚肉。
鶏肉。
卵。
牛乳。
どれも新鮮そのものだった。
「……すごい」
包丁を手に取る。
自然と手に馴染む。
厨房へ立った瞬間、不思議なくらい心が落ち着いた。
さっきまで異世界へ飛ばされた恐怖も、不安も消えている。
ここは、自分の居場所だ。
そう思えた。
開けたままのドアからレオナが呆然と店内を見回している。
「なんだこれは……食堂?」
その声には、魔猪を前にした時よりも大きな驚きが滲んでいた。
ケンジは振り返り、少し照れくさそうに笑う。
「助けてもらったお礼です」
「……何?」
「あなたの人生で一番美味しい料理を作ります」
その一言に、レオナは思わず目を見開いた。彼女はまだ知らない。
その一皿が、自分の人生を大きく変えることになるとは。
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