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第2話「母を知る人」後半①



——その日の放課後、旧図書室にはアルフォンス様がいた。


昼休みはセリーヌさんの場所になっていたこの旧図書室も、放課後は誰も来ない。


長机の向こう側のテオ様の椅子は、いまは空いていた。

その椅子には座らずに、アルフォンス様は長机のこちら側の私の隣に腰を下ろしていた。


セリーヌさんのいない、放課後の旧図書室。


ここはまた私の静かな場所に戻り、その静けさを、いまはアルフォンス様と分け合っていた。


「来たか」


アルフォンス様が、低く言った。


「……はい」


私は、その隣の席に腰を下ろした。

右の手首のブレスレットの石の奥で、アルフォンス様の火の核がすぐ近くの本物の火に応えるように少しだけ温度を上げた。


——温かい。


セリーヌさんと向かい合うときのあの肌に馴染まない藍色とは、何もかもが違った。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


夕方の光が、書架の谷間を横切っていった。

廊下の遠くで、誰かの足音が行ったり来たりしている。


その足音が、ふいに私の中の何かを少しだけ落ち着かなくさせた。


——誰かに、聞かれたくない。


そう思った瞬間だった。


私は、セリーヌさんに教わった水のことを思い出していた。水の声を聞く。水のほうから動いてもらう。外から動かすのではなくて、内側で共鳴する。


私はそっと、指先を持ち上げた。


ごく薄く、水の膜を私たちのまわりに広げた。


眼鏡とブレスレットの裏側をわずかに回すほどの、極小の水。

ただ今日のそれは、いつものとっさの一枚とは違った。

セリーヌさんに教わったとおり、水に命じるのではなく水のほうからゆっくり広がってもらった。


水の膜が、長机を囲むように薄く立ち上がる。


——音が、遠ざかった。


廊下の足音が、ふっと遠くなった。

書架のあいだを渡る夕方の光だけが、その膜の中に残る。


世界から、長机のまわりだけが少しだけ切り離された。


私とアルフォンス様の、二人だけの小さな空間。


——結界。


その言葉が、自然と私の中に浮かんだ。


「……いま、何かしたか」


アルフォンス様が、低く訊いた。


「……はい。音が、漏れないように。水で、薄い膜を」


私がそう言うと、アルフォンス様は金の瞳でその膜の輪郭を一度なぞった。


「……そうか」


それだけ言って、アルフォンス様は何も訊かなかった。

けれどその金の瞳の奥が、いつもよりほんの少しだけやわらかい色をしていた。


水の膜の中で、私の水とアルフォンス様の火の核が同じ空間に静かに在った。火と水。混じり合わないはずの二つが、その小さな結界の中でどちらも荒ぶらず並んでいた。


——混じる。


うまく言葉にできなかった。けれど火と水が、その膜の中で互いの温度を分け合っているような気がした。


「……あの」


私は、思いきって言ってみた。


「最近、母様の昔のことを知ろうとしているんです」


アルフォンス様の金の瞳が、こちらへ向けられた。


「母様は、私が生まれるよりずっと前にいろんなことがあった人で。でも、その昔のことは、自分からは話さなくて。だから、無理に訊いたりはせずに、少しずつ自分で知ろうとしていて」


私は、それ以上は言わなかった。

セリーヌさんのことも、古代水術式のことも、まだ口にはしなかった。それを話すには、私の中でまだ整理のつかないものが残っていた。


「……そうか」


アルフォンス様は、それだけ受け取った。


「無理は、するな」


「……はい」


短い言葉。その短い言葉は母様のことも私の事情も何も問いたださず、ただ「無理はするな」とだけ言ってくれた。


その時だった。


水の膜の中で、私の右の手首のブレスレットの火の核がふいにかすかに揺れた。


——あれ。


ふだんの灯りではなかった。荒ぶるのでもなかった。ただ何かに触れたように、火の核が一瞬、落ち着かなく揺らいだ。


「……妙だな」


アルフォンス様が、低くつぶやいた。


「火が、いつもと違う。落ち着かない」


アルフォンス様は、自分の革手袋の指先を一度見下ろした。その理由が何なのかは、わからないようだった。私にも、わからなかった。


水の膜の中の、火の小さな揺らぎ。


それが何なのかを、その時の私たちはどちらも名づけられなかった。


私は、そっと水の膜を引いた。


水が、夕方の空気の中に音もなく溶けていく。遠ざかっていた廊下の足音が、また元の距離に戻ってきた。


結界が解けると、旧図書室はただの旧図書室に戻った。


さっきまでそこにあった二人だけの小さな空間の温度を、私の体はまだ覚えていた。


「そろそろ、戻るか」


アルフォンス様が、立ち上がった。


「……はい」


私も立ち上がって、猫背気味の歩幅で扉の方へ歩いた。


西の窓の夕方の光が、書架の谷間に最後の一筋を落としている。


右の手首のブレスレットの火の核は、もう元の灯りに戻っていた。


——けれど、さっき揺れた。


その事実だけが、私の中にひと粒、残っている。


それが何の合図だったのかを、私はまだ知らなかった。





※本作はnoteでも掲載中です。

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