第2話「母を知る人」前半③
——それから、私はときどき昼休みに旧図書室へ通うようになった。
テオ様が座っていたあの椅子に、セリーヌさんはいつも座っていた。
あの藍の革表紙の本を開いて、古代水術式の話を少しずつ。
水の声を聞くということ。水と共鳴するということ。私の中の古い水のこと。
その話は、いつも途中で母様の話になりかけた。
でも私は、そのたびに肝心のところを訊けずに口をつぐんでしまう。
母様が「深海の魔女」と呼ばれていたことは、私はもう知っていた。
テオ様が、いつかこの旧図書室で教えてくれた。
母様は強すぎる魔術師で、国にとって力にも危険にもなる人だったのだと。——そのどちらにも、なりたくなかったのだと思う。
ただそれは、言葉の輪郭でしかなかった。
その内側が、どんな色をしていたのか。
母様がどんなふうに水を使い、どんな戦いの中にいたのか。
それを、私はまだ何も知らなかった。
「お母様の昔のこと、もう少し聞いてもいいですか」
その日、私はとうとう自分から訊いた。
セリーヌさんは琥珀色の瞳でこちらを見て、それから穏やかに微笑んだ。
「もちろん。わたくしが知っているのは、中央魔導院に残された記録の中のお母様だけ。それでもいいなら」
「……はい」
私は長机の向かいの席で、少しだけ前のめりになった。
母様の昔。私のいちばん近くにいた人の、いちばん遠い昔。
その奥の色に、初めて触れられるかもしれなかった。
「いまから、二十年ほど前」
セリーヌさんは、本のページをゆっくりめくった。
「アクアニアは、大きな戦の中にあったの。国の南の海から攻め込まれて、たくさんの魔術師が前線に出ても押し返せなかった」
「……戦」
「ええ。そのときにね、たった一人でその侵攻を押し返した魔術師がいたの。海そのものを味方につけて、深い海の底の水を呼んで、国の南をまるごと守りきった」
——深海の魔女。
「あなたのお母様よ、リアネさん」
私の中で、その輪郭に少しずつ色がついていった。
母様。フェルシーア家の麦畑で、いつも静かに笑っていた母様。
家ではただの一度も魔法を使わなかったあの母様が——遠い昔、たった一人で海を呼んで国を守った人だった。
テオ様がくれた「強すぎる魔術師」という言葉に、いま戦の海の色が混じった。
「すごい、人だったんですね」
私が言うと、セリーヌさんは少しだけ目を細めた。
「ええ。すごい人。——わたくしが生まれるより前の話だけれど、あんな水を使う人は、もうどこにもいないわ」
その「もういない」の一音に、畏敬とは別の温度が混じっていた。
憧れの底に沈んだ、わずかな恐れのようなもの。
「記録にはね、お母様の水のことがとても細かく残っているの」
セリーヌさんは、本の一行を指先でなぞった。
「海の底のいちばん深いところの水を、指先みたいに動かした。波の一枚一枚が別々の意思を持っているようだった——そこまで細かく書いてあるのよ。まるで、すぐ近くで見ていた人が書いたみたいに」
——すぐ近くで、見ていた人。
その言い方が、私の肌の奥にひと粒、妙に引っかかった。
二十年も前の戦の記録が、どうしてそこまで細かいのだろう。波の一枚一枚の動きまで、誰がどうやって書き残したのだろう。
「……記録って、そんなに細かいものなんですか」
「お母様の記録は、特別なの」
セリーヌさんは、穏やかに微笑んだ。
「中央魔導院は深海の魔女のことを、それはもう熱心に書き残したから」
その「熱心に」を、共鳴系の私の肌だけが一筋拾った。
——夜の藍色の、いちばん深いところと同じ温度。
説明はできなかった。セリーヌさんの言葉は穏やかで、どこにも嘘の気配がない。けれどその穏やかさの底に、いまのひと筋が確かに流れていた。
中央魔導院は、母様の水のことを波の一枚一枚まで書き残した。
——それなのに。
「あの」
私は、もう一つだけ訊いてみた。
「母様は、どんな人だったんですか。水のことじゃなくて……人として、どんな」
セリーヌさんの指先が、本の上で一瞬だけ止まった。
「——それはね」
セリーヌさんは、静かに首を傾けた。
「記録には、ほとんど残っていないの。どんな水を使ったか、どんな戦をしたか、どれだけ強かったか——そういうことは、いくらでも書いてある。でも、お母様がどんな声で笑って、何を好きで、何を恐れていたか。そういうことは、ほとんど無いのよ」
その瞳の奥に、またあの藍色がよぎった。
——母様の、力のことばかり。
中央魔導院が熱心に書き残したのは母様の水であって、母様という人ではなかった。それが、ほんの少しだけ寂しい。そしてその寂しさの底で、共鳴系の私の体だけがもう一度だけ薄く身じろぎした。
その日も、セリーヌさんは旧図書室を先に出ていった。
私はひとり、長机の向かいの席に残った。西の窓の光が、長机の端まで淡く届いている。
——母様は、海を呼んで国を守った人だった。けれど中央魔導院が遺したのは、その力ばかり。母様という人は、どこにも書かれていなかった。
母様の昔を知るたびに、私はもう一歩ずつ、セリーヌさんの座るあの長机の方へ近づいていた。
——それが、いいことなのか。
その問いを、私はまだ自分の中で形にできなかった。
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