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第2話「母を知る人」前半②



——次の日の昼休み。

私は、旧図書室の重い石造りの扉の前に立っていた。


昨夜、ずっと迷っていた。

セリーヌさんの誘いに乗っていいのか。

あの藍色の声の違和感を、母様の昔を知りたいという気持ちが少しだけ越えていた。だから私は、今日ここへ来た。


右の手首のブレスレットの石の奥で、アルフォンス様の火の核が、変わらぬ温度で静かに灯っていた。


——温かい。

その温かさを確かめてから、私は扉を押した。


長机の向こう側の椅子。

そこに、セリーヌさんが座っていた。


「来てくれたのね」


セリーヌさんは、穏やかに微笑んだ。

その瞳が、いちだんと色を深めた。長机の上に、革表紙の古い本が一冊開いて置かれていた。


——あの本。


その本の表紙の色を、私は知っていた。

深い藍の革表紙。テオ様がいつもこの長机で開いていた古文書と、同じ色だった。


「座って。今日は、お話だけよ」


私は、勧められた席に腰を下ろした。


「古代水術式の話を、する前に」


セリーヌさんは、開いた本の一行を指先でなぞった。


「いまあなたが学院で教わっている水術式は、ぜんぶ新しいものなの。水を、外から動かす技術。形を作って、水に命じて、思った通りに操作する。火も、風も、光も、みんな同じ。魔力で外から世界を動かす——それが、いまの魔導の体系よ」


「……外から、動かす」


「ええ。でも、ね。古代の水は、違ったの」


セリーヌさんは、本のページをゆっくり一枚めくった。


「古代の水術式は、水を動かさない。水の声を聞いて、水のほうから動いてもらう。術者と水の境い目が、とても曖昧なの。自分の感情がそのまま水に伝わって、水の揺らぎがそのまま自分に返ってくる。外から動かすのではなくて——内側で、共鳴する」


——共鳴。


私の中で、その言葉が引っかかった。


「リアネさん。あなたの水は、たぶんその古い形に近い」


セリーヌさんの声は、穏やかなままだった。


「感情と深く連動して、密度が高くて、共鳴系の質を持っている。いまの体系の中では、扱いにくい水だと言われたでしょう。最下位の、目立たない水だと」


私の中で、ひと拍だけ、息が止まった。


その通りだった。私の水は、記録の上では最下位の扱いになっている。母様の眼鏡が、その底を覆っているからだ。隠してきたものを、セリーヌさんはいままっすぐに言葉にした。


「でもね、それは古い体系の中ではぜんぜん違う意味を持つの」


セリーヌさんは、琥珀色の瞳で私を見た。


「あなたの水は、特別。古代の水に、いちばん近い形をしているのよ」


——特別。


その言葉が、私の肌の上でうまく馴染まなかった。


「特別」は、私がいちばん隠してきた言葉だった。

目立たず、静かに、最下位の擬態のまま卒業まで生きる——それが私と母様と兄様の決めた生き方だった。

「特別」だと知られることは、その擬態が崩れることだ。だから私にとって、その言葉はずっと怖い言葉だった。


なのにセリーヌさんはそれを、まるで贈り物のように差し出した。優しく、穏やかに、何の棘もなく。


その優しさが、私の肌に馴染まなかった。


共鳴系の私の体のいちばん奥だけが、その「特別」の底にまたあの藍色を拾っていた。


「古代水術式には、もう一つ面白いところがあるの」


セリーヌさんは、開いたページを手のひらで軽く押さえた。


「いまの魔導の体系では、術式を使うとその痕跡が残る。誰がどこで何を使ったか、中央の記録に刻まれていく。魔力には、それぞれ独特の揺らぎがあるから」


——独特の、揺らぎ。


その言葉は、いつか旧図書室で聞いたことがあった。テオ様が、私の術式の揺らぎを肌で読んだときの言葉だった。


「でも、古代水術式はその体系の外にあるの。だから、痕跡が残らない。中央の網にも、映らない。誰にも見られずに、使える水なのよ」


——誰にも、見られずに。


その一言の意味を、私はそのとき深く考えなかった。


母様の昔を知りたいという気持ちのほうが、その言葉よりも前に立っていた。


「お母様も、この水を使っていたの」


セリーヌさんは、本の最後のページをそっと閉じた。


「中央の記録の中の深海の魔女は、この古代の水の形を誰よりも深く使った人だった。その水が、いまあなたの中にある」


——母様の、水。


私の中で、その輪郭がひと粒、灯った。


母様。私のいちばん近くにいた人なのに、母様がどんな水を使うのかを、私は一度も見たことがなかった。家では、ただの一度も魔法を使わなかったから。


その母様の水を、セリーヌさんは「知っている」と言う。記録の中で。


「次は、少しだけやってみましょうか」


セリーヌさんは、立ち上がった。


「無理はしないわ。ほんの、水のひと雫ぶんだけ。あなたの中の古い水がどんなふうに応えるか——それを、いっしょに見てみましょう」


セリーヌさんが旧図書室を出ていったあと、私はひとり長机の向かいの席に残った。


午後の光が、書架のあいだに細く落ちていた。


——母様の、水。誰にも見られずに使える、古い水。


その言葉が、私の中で何度もかたちを変えた。


右の手首のブレスレットの奥で、アルフォンス様の火の核は温かいままだった。


けれど母様の水のことを思うと、私の中の何かが、いつもより前のめりになっていた。





※本作はnoteでも掲載中です。

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