第2話「母を知る人」前半①
——テオ様が発たれてから、三日が過ぎていた。
初秋の朝の光が、北方寄宿舎の蔦の絡んだ古い石壁の上をなぞっていた。
葉のいちばん端の赤い色が、三日のあいだにもう一段だけ深くなっている。
私は亜麻色の髪を無造作に束ねて、黒縁の眼鏡を押し上げた。
右の手首のブレスレットの石の奥で、アルフォンス様の火の核が、朝の温度で静かに灯っていた。
——温かい。
それが、いまの私の朝のいちばん確かなものだった。
昼休みになると、私はいつものように旧図書室へ向かった。
教室を出る時、廊下の先にプラチナブロンドの結い上げ髪がひとつ見えた。カトリーヌ様。
あの実技の日から、もうひと月あまりが過ぎていた。
あれ以来、カトリーヌ様は私に何も仕掛けてこない。星型の銀の髪飾りも、教室では外したままだった。
すれ違いざま、その視線が一度だけ、私の方を通り過ぎた。
声をかけてくることはなく、ただ、それだけだった。
本校舎の北廊下の、いちばん奥。
人の通らない、いちばん静かな場所。
教室の喧騒からも廊下の視線からも遠いその一角は、私がひとりになれる場所だった。
長机の向こう側の椅子に、テオ様はもういない。
それはわかっていた。
それでも旧図書室そのものは、初めて逃げ込んだあの日から、私の静かな居場所だった。
だから私の足は、今日もこの北廊下のいちばん奥へ向かう。
重い石造りの扉を、私は押した。
古い本の匂いと、西の窓から差し込む昼の薄い光が、床に細い影を落としていた。
長机の向こう側の椅子。
——あ。
そこに、人が座っていた。
テオ様では、ない。
アッシュブラウンの長い髪が、今日も肩の下までなめらかに流れていた。
毛先のひと房が、胸の前で軽く揺れていた。
学院の制服の襟元で、中央魔導院の銀の徽章が西の窓の光を返していた。
——セリーヌさん。
テオ様がいつも座っていた、あの椅子。
テオ様が古文書を開いていた、あの長机。
その同じ場所に、セリーヌさんが優雅な角度で座っていた。
私は、思わず息を呑んだ。
「いらっしゃい」
セリーヌさんが、こちらへ顔を上げた。
琥珀色の瞳が、私を見て、やわらかく細められた。
穏やかで、優しい、年上の人の声だった。
「あなたが来るような気がして、待っていたの」
その声を、私の体のいちばん奥だけが別の温度で受け取った。
——夜の藍色の、いちばん深いところと同じ温度。
説明はできなかった。
セリーヌさんの声は穏やかで、優しくて、どこにも棘がない。
けれど共鳴系の私の肌だけが、その優しさの底に薄く沈んだ一筋の藍色をいつかの夜のように拾っていた。
「……セリーヌさん」
私はそれだけ応えて、扉の前で猫背気味の角度を一段下げた。
「驚かせてしまったかしら」
セリーヌさんは、長机の上に手を置いた。
「ここは、静かでいい場所ね。アクアニアの古い書庫を、少し思い出すの」
そう言って、セリーヌさんは西の窓の方へ視線を流した。その横顔の輪郭が、昼の光の中で穏やかに整っていた。
——テオ様の、椅子。
私は声にはしなかった。その一言だけが、私の中に低く残った。
セリーヌさんが座っているのは、テオ様の場所だった。テオ様がいなくなって、まだ三日。その椅子にもう別の人が座っているのが当たり前のことなのか、そうではないのか、私にはわからなかった。
「リアネさん」
セリーヌさんが、私の名を呼んだ。
「あなたに、教えられることがあるの」
「……教えられること」
「古代水術式。アクアニアの中央魔導院に、いまも記録として残っている古い水の使い方よ」
セリーヌさんの指先が、長机の上の一点をゆっくりとなぞった。
「いまの学院で教わる水術式は、ずっと新しいものなの。でも、ね。あなたの水は——たぶん、もっと古い形に近い」
——私の、水。
私の中で、その言葉がひと粒、落ちた。
私が水属性であることは、記録の上では最下位の扱いになっている。母様の眼鏡が、その深さを隠してくれているからだった。なのにセリーヌさんはいま、その隠したはずの水のことをまっすぐに見ているような言い方をした。
「どうして……それを」
「お母様の記録に残っている水の形を、わたくしはよく知っているの」
セリーヌさんは、穏やかに微笑んだ。
「だから、あなたの水を見れば、なんとなくわかるのよ」
——お母様の、記録。
その一言が、私の中の別の場所にまっすぐに届いた。
母様。麦畑の匂いのする、私のいちばん近くにいた人。
私は、母様の昔のことを——アクアニアにいた頃の母様のことを、ほとんど知らなかった。
深海の魔女と呼ばれていたことも、国を捨てて父様についてきたことも、母様は自分から語る人ではなかった。
その遠い昔の母様を「記録で知っている」と言う人が、テオ様のいなくなった旧図書室にいま座っていた。
藍色の声の違和感は、まだ私の肌の奥に残っている。
けれど。
——母様の知らない昔を、知れるかもしれない。
その気持ちの方が、その違和感よりも一段だけ大きかった。
「無理にとは言わないわ」
セリーヌさんは、立ち上がった。
「ただ、わたくしがこの学院にいられるのは三月まで。それまでのあいだに、もしあなたが古い水のことを知りたいと思うなら——そのときは教えられる。それだけ、置いておくわね」
その銀の徽章が、もう一度西の窓の光を返した。
「気が向いたら、いつでも。この長机は、いつでも空いているから」
——この長机は、いつでも空いている。
その言葉が、テオ様の空けた椅子の上に薄く重なった。
セリーヌさんが旧図書室を出ていったあと、私はひとり長机の向かいの席に座った。
西の窓の光が、書架の谷を静かに満たしていた。
——母様の、昔。
それは私の中で、いちばん近くて、いちばん知らない場所だった。
私は右の手首のブレスレットを、左の手のひらでそっと確かめた。アルフォンス様の火の核は、薄水色の石のいちばん深いところでいつもの灯りのまま静かに灯っていた。
——温かい。
その温かさだけは、迷わなかった。
けれど、あの藍色の声と、母様の昔と。
その二つを、私はまだ自分の中で測りかねていた。
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