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第1話「足音の正体」後半②




——初秋の朝。


その日が来た。


北方寄宿舎の三角屋根の上の空が、夏の終わりの薄い灰色から初秋の淡い水色へ変わっていた。

蔦の絡んだ古い石壁の上の葉は、いちばん端の赤が、いくつか深く染まり始めていた。


机の上の氷の結晶は、まだそこに立っていた。


夏の盛りまではもつ、とテオ様はおっしゃっていた。

テオ様が発たれる今日も、結晶は薄い白い肌のままだった。

机の上で、朝の光をわずかに屈折させていた。


——テオ様が今日、ご出立される。






学院の正門の前に集まる人の数が、ふだんより少しだけ多かった。


朝の薄い水色の光が、正門の高い石の門柱を斜めに撫でていた。

馬車が一台、正門の脇に停められていた。

馬車の漆黒の車体の縁に、わずかな金の縁取りが、朝の光を鈍く返していた。

アクアニア王家の馬車だった。

「氷魔法の留学生」のための馬車にしては、わずかに格が違いすぎた。それを、いまの私は知っていた。


正門の少し手前で、マルガレーテ学院長が一段高い位置に立っていた。


その学院長の少し後ろに、もう一人。


——セリーヌさん。


アッシュブラウンの髪を、今日はうなじで一つに束ねていた。

学院の制服の上に、アクアニアの礼装の薄い白い羽織。

中央魔導院から、同郷のテオ様の出立を見送りに来た装いだった。


——あの人も、見送りに来ている。


そして、私の隣に。


——アルフォンス様。


漆黒の制服の輪郭が、私の隣にいつもの低い角度で立っていた。

革手袋の指先が、ポケットの脇に低く添えられていた。

今朝はアルフォンス様がご自分から「俺も、見送る」と告げて、私の隣まで歩いてきてくださった。


私の右の手首のブレスレットの中で、アルフォンス様の火の核が、ほんの一段だけ深い温度で灯っていた。






馬車の脇の侍従が、扉を低く開けた。


正門の前の生徒や教師の中から、人影が一つ歩み出てきた。


——テオ様。


氷青の銀の髪が低く結ばれ、眼鏡の縁が朝の光の中で薄く光っていた。

制服の上に、王家直属の留学生の薄い濃紺のマントが今日は重ねられていた。薄水色の瞳が低い角度で、正門の方をまっすぐに見ていた。


テオ様は学院長の前で、深く礼をした。


「マルガレーテ学院長。半年のあいだ、お世話になりました」


「テオドール殿。お元気で、いってらっしゃいませ」


学院長の声は低く整った温度だった。

「いってらっしゃい」と学院長は言った。

「お別れ」でも「お見送り」でもなく。それは、戻ってくる者への送り出しの言葉だった。


「ええ」


テオ様はそれだけ応えて、もう一度、低く礼をした。


それから、テオ様の視線が学院長の後ろのセリーヌさんの方へ流れた。


「セリーヌ殿」


「テオドール殿。お気をつけて」


セリーヌさんも、控えめに礼を返した。


「ええ。学院のこと、よろしくお願いします」


「承知いたしました」


二人の礼節は、初秋の朝の光の中で完璧な品格のまま交わされた。


ただ、その品格の下の温度を、共鳴系の私の肌だけが拾っていた。


——薄い絹で包んだ、氷の刃。


テオ様がセリーヌさんに向ける視線の底に、留学生同士の礼節とは違う重さがあった。

テオ様はそれを一度だけ確かめてから、何も言わずに視線を戻した。






——その時。


テオ様の薄水色の瞳が、ふいに私の方へまっすぐ向けられた。


私の中で、息が止まった。


朝の薄い水色の光の中で、テオ様の瞳が一段、深い色をしていた。

それは「特待生」と呼んでくださっていた時の温度とも違った。

何かを託していく時の、温度だった。


テオ様の視線が、私の隣のアルフォンス様の方へひと筋流れた。


それから、また私の方へ戻ってきた。


「——リアネ」


テオ様が、私を名前で呼んだ。


その瞬間、隣のアルフォンス様の火がふっと揺らいだ。


私の右の手首のブレスレットの中の火の核に、それがまっすぐ届いた。


焦げる、ほどではない。それでも確かに、私の肌の奥で揺れた。


「次にここへ戻る時は、王家の命令でなく、俺自身の意志で来たい」


テオ様の声は、低かった。その一音ずつに、ふだんの平らさとは違う重さがあった。


「……はい」


私はそれだけ、応えた。


応えるための声が、少し掠れた。






テオ様は馬車の脇まで歩いていって、もう一度だけ正門の方を振り返った。


テオ様は、見送りの私たちをもう一度だけ見渡してから、馬車に乗り込まれた。


侍従が、馬車の扉を低く閉めた。


馬車の馭者の合図で、車体がゆっくり動き始めた。

アクアニアの方角へ、正門の鉄の門の向こうへ。

馬の蹄の音が、初秋の朝の石畳の上で、わずかに重く響いていた。


——テオ様が、いってしまわれる。


胸の中で、その一行を内側で確かめた。


馬車が、正門の外の坂道の向こうへ小さくなっていった。

最後の角を曲がる時、馬車の窓のあたりに薄水色の何かが一瞬だけ光った気がした。

それが朝の光の反射だったのか、テオ様の氷術の名残だったのか。私には、わからなかった。


ただ、その光が一度だけこちらへ届いて消えた。




正門の前の生徒や教師たちが、それぞれの場所へ戻り始めた。


マルガレーテ学院長は、本校舎の方へ静かに歩き出した。

セリーヌさんも控えめにもう一度礼をしてから、学院長の少し後ろを優雅な歩幅で歩いていった。


すれ違いざま、セリーヌさんの琥珀色の瞳が一瞬、私の方を見た気がした。


その瞳の奥に、「優しいお姉さん」の温度とは違う薄い藍色がもう一度流れていた。


——知りたい。けれど。


その二つが、もう一度私の中で立った。


セリーヌさんは何も言わずに、そのまま遠ざかっていった。




正門の前に、私とアルフォンス様だけが残された。


「行ったな」


アルフォンス様が低く、それだけ言った。


「……はい」


それから、アルフォンス様はしばらく何も言わなかった。

馬車の消えた正門の向こうを、ただ見ていた。


「……名前で、呼んだな」


「……はい」


「……俺も、呼ぶ」


えっ、と顔を上げる間もなかった。


「リアネ」


テオ様の三音を、アルフォンス様が上からもう一度呼んだ。


同じ名前のはずなのに、まるで違う温度だった。


右の手首のブレスレットの中で火の核がひと粒、いつになく熱く灯った。


その熱が、私の肌の奥までまっすぐ届いた。


アルフォンス様は、もう前を向いていた。けれどその耳の先が、初秋の朝の光の中で赤かった。






「戻ろう」


アルフォンス様が、それだけ告げて正門の方から本校舎の方へ歩き出した。


「……はい」


私もいつもの猫背気味の歩幅で、その隣を歩いた。


アルフォンス様の黒髪と私の亜麻色の髪が、初秋の朝の光の中で本校舎の正面玄関の方へ並んで歩いていった。


——隣に。


並んで歩く——それが、今日初めて生まれた形だった。


私もアルフォンス様も、それを言葉にはしなかった。ただ二人とも、その形を確かに受け取り合っていた。






本校舎に入って、北廊下を旧図書室の方へ歩いていった。


アルフォンス様は途中で「俺はいったん寮に戻る」と告げて、南方寄宿舎の方へ別れた。


「……はい。お気をつけて」


「お前も、無理はするな」


アルフォンス様はそれだけ短く言って、もう一つの方角へ歩き出した。


私は北廊下のいちばん奥の重い石造りの扉の前まで、猫背気味の歩幅で歩いていった。






旧図書室の重い石造りの扉を、私は押した。


古い本の匂いと、西の窓から差し込む朝の薄い光が、書架の背をひとつずつ照らしていた。


長机の向こう側の椅子に、テオ様の姿はなかった。


——あ。


私の中で、息が静かに整った。


私は長机の向かいの席に、腰を下ろした。


——いつもの場所。


——いつもの空気。


——ただ、いつもの椅子に、いつもの方はいらっしゃらない。


その差分だけが、初秋の朝の旧図書室の空気の中に残った。


声にはしなかった。




旧図書室を出て北廊下を寮の方へ戻り始めた時、私はもう一度、右の手首の火の核を確かめた。


——温かい。


——テオ様は、いってしまわれた。でも、いなくなったわけではない。また戻ってくると、ご自分の意志で言ってくださった。




北方寄宿舎の三角屋根が、初秋の朝の薄い水色の光の中に、変わらず立っていた。


私は猫背気味の歩幅で、その三角屋根の方へ歩いていった。


自分の部屋の扉を開けると、机の上の氷の結晶は、そのまま立っていた。

握りこぶしより小さい、薄い白い結晶。テオ様が旧図書室で手渡してくださった、あの時のままの姿で。


私は窓辺の椅子に、腰を下ろした。


朝の薄い水色の光が、窓の外の中庭の方から差し込んできていた。

窓辺の木の人形が、その場所に立っていた。古い木の本棚も、古い木のベッドも、昨日と何も変わらない。


——机の上の氷の結晶。右の手首の火の核。学院に残るセリーヌさん。そして、いなくなったテオ様。その四つが、いまの私の部屋の朝の空気の中にあった。




私の中で初めて、その四つが整理された。


旧図書室の長机の向こう側の椅子は、明日からは空いている。

テオ様の薄水色の瞳も、氷青の銀の髪も、低くよく通る声も、もうその椅子の上にはない。


——あと、半年。


セリーヌさんが中庭で言った「半年だけ編入させていただいています」というその半年を、私はもう一度内側で確かめた。


セリーヌさんもまた、半年で帰る。テオ様が戻られる頃には、たぶんセリーヌさんもいない。


——その半年のあいだに、私はどうするのか。


「知りたい」と「けれど」のあいだの距離を、半年で私はどう測るのか。


——わからない。


ただ右の手首のブレスレットを、左の手のひらでもう一度そっと確かめた。


火の核は、薄水色の石のいちばん深いところに灯り続けていた。


いまの私に確かなものは、それだけだった。






窓の外で、初秋の朝の風がもう一吹き、葉のいちばん高いところを薄くなぞって通り過ぎていった。


秋が、もう来ていた。


その秋の中に何が待っているのかを、私はまだ知らなかった。






※本作はnoteでも掲載中です。

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