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第1話「足音の正体」後半①



朝の教室の扉を、私は押した。


朝の鐘までにはまだ少し時間があった。教室の中は薄い橙色の朝の光に満たされていて、生徒の姿はまだ少なかった。私は自分の席へ向かって歩き出した。


——その時。


教室の最後列の窓際の席に、漆黒の制服の人影が一つすでに座っていた。


——アルフォンス様。


私の中で息が静かに整った。


最後列の窓際の席。

アルフォンス様が一年生のいちばん最初の日から自分のものとして決めてきた席。今朝もその席に、低い角度で座っていた。

革手袋の指先が、開いた本のページの上に低く添えられていた。


私が席へ向かう途中、アルフォンス様の金の瞳がほんの一瞬だけこちらへ上げられた。


その視線が私の中に、ひと粒、落ちた。


私は自分の席に腰を下ろした。

アルフォンス様の方は振り返らなかった。

それでも共鳴系の私の体は、最後列の窓際の席からこちらへ向けられている視線を肌で知っていた。


——いつもの朝。


それがいまの私の中の一つの安らぎだった。






最後列の窓際のアルフォンス様の席と前寄りの私の席は、教室の端と端で離れている。声は届かない。

人目のある教室で長く視線を交わすこともできなかった。

アルフォンス様は貴族で、私は平民の特待生で、二人が親しいと知られてはいけなかった。


それでも私たちには、誰にも見えない朝の挨拶があった。


席に着いてしばらくすると、右の手首のブレスレットの薄水色の石の奥で火の核がわずかに深くなった。


——おはよう。


アルフォンス様が最後列の窓際の席から、火の核に少しだけ温度を送ってきたのだった。

共鳴系の私の体だけが、それを受け取れた。

誰の目にも見えず声にもならない、二人だけの朝のひとことだった。


私は左の手のひらをそっとブレスレットの上に重ねて、その温度を少しだけ押し返した。


——おはようございます。


それが私たちの、毎朝の声のない往復だった。火の核の。


北翼の北廊下で動線の重なる朝には、生徒のいない一瞬に二言か三言だけ低く交わすこともあった。

それもすぐに、また端と端の他人に戻る。


表に出せるものは何ひとつなかった。それでも私の朝のいちばん柔らかい輪郭は、その見えない往復の温度でできていた。






朝の鐘までの少しの時間、私は自分のノートを開いてその一行に指先をのせた。


その一行はもちろん入ってこなかった。


教室の中の生徒の姿はまだ少なかった。

窓の外の中庭の方で、秋の初めの風が噴水の薄い水音をかすかに運んできていた。


——少し外の空気を。


そう思い立って私は席から立ち上がった。


朝の鐘までにはまだ間がある。

中庭の小さな噴水の脇を、近道で歩いてから戻ろうと決めた。

私が席を立った時、最後列の窓際のアルフォンス様の視線がこちらへ上げられた気がした。私は振り返らなかった。


教室の扉を押して廊下へ出た。






本校舎の正面玄関を抜けて中庭の石畳の上に立った時。


朝の薄い橙色の光が中庭の小さな噴水の薄い水しぶきの上を斜めに渡っていた。

生徒の姿はやはりまだ少なかった。

噴水の薄い水音だけが秋の初めの空気の中に低く立っていた。


——その時。


「あの」


私の背中の少し後ろから低くよく通る女性の声が届いた。






——あ。


私の中で息が止まった。


その声を私の体は知っていた。

共鳴系の私の肌がその温度を覚えていた。


——夜の藍色のいちばん深いところと同じ温度。


寮の廊下の夜の声。

「アクアニアから参りました」「テオドール様にお取り次ぎを」と寮母さんに告げた、あの女性の声。


私はゆっくり振り返った。






中庭の小さな噴水の脇にその人は立っていた。


アッシュブラウンのなめらかな長い髪が肩の下まで流れていた。

秋の初めの朝の薄い光がその髪の毛先を斜めに撫でていた。

琥珀色の瞳は、おだやかな色をたたえていた。

学院の制服を品よく着こなしていて、襟元では、中央魔導院の銀の徽章が、朝日をひとすじ返していた。


——あの人。


北廊下のすれ違いの時のあの人だった。


「驚かせてしまってごめんなさい」


その人は控えめに腰を折って、私の方へひと歩寄った。


「中庭でお一人でいらしたから。お声をかけていいか少し迷いました」


声は優雅でよく通って、押し付けがましさはなかった。年上の女性が年下の少女に話しかける時の、ちょうどよい温度の距離。


「……いえ」


私は控えめな猫背気味の角度を保った。


「あなたがリアネ・フェルシーアさん、ね」


その人は私の名前をすでに知っていた。


「……はい」






「セリーヌ・ヴェル・マレと申します」


——セリーヌ。


私の中で、その名前が初めての音として降りてきた。


「アクアニアの中央魔導院から半年だけ学院に編入させていただいています」


セリーヌさんは控えめに、頭を下げた。


「最終学年級だからリアネさんとはたぶん教室では一度もお会いしないでしょう。ただ、水属性の選択授業ではご一緒できる機会があるかもしれません」


「……はい」


「その時はよろしくお願いしますね」


セリーヌさんの口元に薄い微笑が浮かんだ。

私が初めて会う「優しいお姉さん」の微笑だった。


——優しい人に見える。


その第一印象を私は内側でだけ受け取った。






——けれど。


その瞬間、私の共鳴系の肌がもう一つ別の温度を拾った。


セリーヌさんの背後の本校舎の方向。


——見られている。


こちらへ向けられた視線の温度があった。

火属性の温度。すでに私の中に灯っている、あの火の核と同じ温度。


——アルフォンス様。


アルフォンス様が、教室の窓から、いまの中庭の私とセリーヌさんを見ているのだった。






「リアネさん」


セリーヌさんがもう一歩、私の方へ寄った。


「……はい」


「あなたのご家名、フェルシーア」


「……はい」


「珍しいお名前。アクアニアの、古い水の家名でしょう。いまでは本国でも、覚えている方は少ないけれど」


「……」


私は何も応えられなかった。

フェルシーアという家名のことを学院の中で初めて誰かに直接尋ねられたからだった。


セリーヌさんはそれ以上は踏み込まなかった。

代わりに中庭の小さな噴水の方へ視線を一度だけ流して、それから戻した。


「秋になりましたね」


ふいにそんな世間話を一つ挟んだ。


「アクアニアの秋とはまた少し違うのですが。こちらの秋は、葉の色がずっとはっきりしています」


「……はい」


私はそれだけ応えた。


セリーヌさんの「アクアニアの秋」の話に、テオ様の旧図書室の言葉が重なった。

「秋の終わりの海は夏の海よりもずっと暗い藍色になる」というテオ様の声。

ただ、セリーヌさんの口から出る「アクアニア」の温度は、テオ様のそれとは少しだけ違っていた。


どこがと問われれば答えられない。ただ共鳴系の私の肌が、その違いを拾っていた。






「リアネさん」


セリーヌさんがもう一度、私の名を呼んだ。


「……はい」


「わたくしあなたのお母様を知っています」


——あ。


私の中で心臓がはっきり止まった。


それでも顔は動かなかった。

私はいつもの猫背気味の角度を保ったまま、唇も瞳も何も変えなかった。

入学してから今まで重ねてきた「猫背気味の存在感の消し方」が、いまの瞬間に私を表向き救っていた。


——お母様を知っている。


セリーヌさんの声の中に、その一文だけが確かに残っていた。優雅な微笑も控えめな物腰も何ひとつ崩さずに、その一文だけが中庭の朝の空気の中に立った。


「……母を」


私はそれだけ応えた。


応えるための声が自分でも思っていたよりも平らに整えられて出ていた。


「ええ」


セリーヌさんは優雅な微笑をそのまま保った。


「中央魔導院にお母様のお名前とお仕事の記録がいくつか残っています。ずいぶん古いものですが」


——記録。


「直接お会いしたことはもちろんありません。わたくしは十五だしお母様がアクアニアにいらした頃はわたくしはまだ生まれてもいませんでしたから」


セリーヌさんはそう続けて、薄く微笑んだ。


「ただ記録の中のお母様のことをわたくしはよく知っています」


——よく知っている。


その「よく」の音の中に、共鳴系の私の肌が、また別の温度を拾った。






——優雅でよく通って、押し付けがましくない。


その温度の底に、あの藍色がまた細く流れていた。

表向きの「優しいお姉さん」の声の下を。


——気づかないふりをした。


私は猫背気味の角度をもう一段だけ下げた。

気づいてしまったことを相手に気づかせてはいけない。


そのあいだも、アルフォンス様の火の温度は、私の背にまっすぐ届いていた。


「……そうですか」


それだけ応えた。






「いつかもしよろしければ」


セリーヌさんが最後に、もう一文だけ足した。


「お母様のことをお話できればと思っています」


「……はい」


「お急ぎではありませんよ。リアネさんがお聞きになりたいと思われた時で結構ですから」


セリーヌさんはそれだけ言って、控えめに礼を取った。


「ではまた学院の中のどこかで」


「……はい」


セリーヌさんは中庭の小さな噴水の脇を、優雅な歩幅で歩き出した。

髪の毛先のひと房が秋の初めの朝の風の中で軽く揺れた。


私はその背中をしばらく動かずに見ていた。






セリーヌさんの足音が本校舎の方へ静かに遠ざかっていった。


中庭の小さな噴水の薄い水音だけが、秋の初めの空気の中に低く戻っていた。


——アルフォンス様もご覧になっていた。


声にはしなかった。


——お母様のことを、知っている人。


母様の、私の知らない昔。

深海の魔女と呼ばれていた頃の、国を捨てた頃の母様。父様も兄様も、その昔のことだけはほとんど話してくれなかった。

それを「記録の中でよく知っている」と言う人が、いまここにいた。


——知りたい。


その「知りたい」の隣に、けれど、共鳴系の私の肌が拾ったあの藍色のひと筋が残っていた。


——知りたい。けれど。


その「けれど」を抱えたまま、私は教室棟の方へ歩き出した。






教室棟への廊下を、猫背気味の歩幅で歩いていた時。


——その時。


廊下の曲がり角の少し手前で、人影が一つこちらへ向かって歩いてきた。


——アルフォンス様。


私の中で息が整った。


教室の最後列の窓際の席に座っていたはずのアルフォンス様が、いまは廊下にいた。

教室から出てきて、私が戻ってくる動線の上にわざわざ立っていた。


北翼の北廊下のこの曲がり角は、生徒の少ない朝にすれ違いざま二言三言だけ交わす場所だった。

今朝のアルフォンス様は、そのすれ違いを待たずに教室を出て、私を待っていた。


「リアネ」


すれ違いざま、アルフォンス様が低く私の名を呼んだ。


「……はい」


「あの女、誰だ」


短く低い、確かな問いだった。


アルフォンス様の金の瞳が廊下の薄い光の中で、いつもより深い色をしていた。

「あの女」とアルフォンス様は中庭のセリーヌさんを呼んだ。「あの方」でも「あの留学生」でもなく「あの女」。


「……アクアニアの中央魔導院から編入された方です」


私はそれだけ応えた。


「セリーヌ・ヴェル・マレ、というお名前です」


「……セリーヌ」


アルフォンス様はその名を内側で一度、低く確かめるように繰り返した。

それから革手袋の指先を廊下の壁に一瞬触れて、また下ろした。


「俺は、あの女、好かない」


アルフォンス様はそれだけ短く言って、もう何も訊かなかった。


「……はい」


私は応えた。


——俺は、あの女、好かない。


ただの感想のような一言だった。それでもアルフォンス様のその勘が、これまで何かをまっすぐ見抜いてきたことを、私はもう知っていた。






「教室に戻る」


アルフォンス様はそれだけ告げて、廊下の向こうへ低い歩幅で歩き出した。その背中が、廊下の曲がり角の向こうへ歩き去っていった。


私はその背中をしばらく見送ってから、教室の方へ歩き出した。






教室の扉を開けた時。


最後列の窓際の席にアルフォンス様はもう戻っていた。

革手袋の指先が、開いた本のページの上に伏せられていた。


私は自分の席へ、猫背気味の歩幅で歩いていった。

席に着いた時、最後列の窓際からこちらへ視線が向けられた気がした。


——見ていてくださる。


その視線の温度だけが、いまの私の中で確かだった。


セリーヌ・ヴェル・マレ。

お母様を知るという人。

アルフォンス様が「好かない」と言った人。その名前を朝の空気の中に抱えたまま、私はその席に座っていた。





※本作はnoteでも掲載中です。

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