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第1話「足音の正体」 前半③




——夏の終わりの風が、もう秋の気配を薄く運び始めていた。


アクアニアからもう一人留学生が来たという噂が走り始めてから、数日が静かに過ぎていった。


私はまだ、その人を直接見ていない。


教室の窓の向こうの空がもう一段薄く高くなり、北方寄宿舎の蔦の絡んだ古い石壁の上の葉のいちばん端に、わずかに赤い色が混じり始めていた。


秋がもうじき来る、という気配。けれどテオ様は、まだここにいる。

昼休みの旧図書室の重い石造りの扉を、私はゆっくり押した。


古い本の匂いと西の窓から差し込む昼の薄い光が、書架の谷間を斜めに渡っている。


空気は低く沈んでいた。


長机の向こう側のいつもの椅子にテオ様は座っていて、長机の上には古文書が開いたままになっていた。


テオ様の薄水色の瞳が低い角度で、その古文書の一行を追っていた。

氷青の銀の髪の先が、午後の光の中でわずかに揺れている。


「来たな、特待生」


テオ様の声は落ち着いた温度だった。

学者が学生を迎える時のような、低くも高くもない迎え方だった。


「……はい」


私は長机の向かいの席にゆっくり腰を下ろした。


「今日も、よく来た」


テオ様はそう続けて、それから長机の上の古文書のページを一枚めくった。古文書を閉じようとはしなかった。

私が席に着いたあとも、テオ様は自分の前の本のいちばん上のページに視線を据えたままだった。


——いつもの旧図書室の温度。


二人ともしばらく、何も言わなかった。


私は長机の上に持ってきたノートをそっと開いて、その一行に指先をそえた。


テオ様も古文書の一行のあたりに目を落としたまま、ページをめくらない。

旧図書室の西の窓の外で秋の気配の風が、葉のいちばん高いところを薄くなぞって通り過ぎていった。


「特待生」


テオ様が、もう一度私を呼んだ。


「……はい」


「お前の右の手首のブレスレットだが」


——右の手首。


私はひと拍だけ、自分の右の手首のブレスレットを見下ろした。


薄水色の石のいちばん深いところに、アルフォンス様の火の核が今朝も変わらぬ温度で灯っていた。


「最近、少し、温度が変わったな」


——気づいていらした。


テオ様の薄水色の瞳が、長机越しに私の右の手首の高さにとどまっていた。氷術を扱うテオ様には、私のブレスレットの中の温度の変化が肌で読めるということだった。


「……はい」


それ以上、私は何も言えなかった。


アルフォンス様の火の核のことを、テオ様に直接お話しするのは違う気がした。


けれどテオ様はそれ以上の説明を求めなかった。


「悪い温度ではない」


テオ様はそう言って、視線を古文書の方へ戻した。


「お前のことを思う者の温度だ。それが、お前のブレスレットの石の中にある。俺の氷の結晶よりも、その温度の方がお前の中で長く灯る」


——アルフォンス様のことを、テオ様は何も訊かなかった。


ただ、その温度を「悪いものではない」と認めてくれた。


テオ様の薄水色の瞳の中には、ふだんの平らさの底に、わずかな柔らかさがにじんでいた。


「……はい」


私はそれだけ応えた。


応えるための声の中で、私の中の何かが、少しだけ揺れた気がした。

けれど、それも声には出さなかった。


「特待生」


「……はい」


「アクアニアの秋というのはな、ここの秋とは少し違う」


テオ様はふいに、自分の話を一つ切り出した。


「海沿いの国だから、空気の中に塩の気配が混じる。葉は、こちらほど赤くならない。代わりに、海の色が日に日に深くなっていく。秋の終わりの海は、夏の海よりもずっと暗い藍色になる」


「……暗い藍色」


「俺がアクアニアに戻る頃には、もうその色だ」


テオ様の薄水色の瞳が、ほんの一瞬だけ西の窓の外の方へ向けられた。


「その海はな、お前の母上が育ったところでもある」


——母様の、故郷。


私の中で、その輪郭が静かに立った。

母様。麦畑の匂いのする、私のいちばん近くにいた人。

けれど母様の昔のことは、ほとんど知らなかった。


母様がどんな海のそばで育ったのかを、私はいままで一度も具体的に思い描いたことがなかった。


テオ様はそれを、いまたったわずかな言葉で私の中に描いてくれた。


「……暗い藍色の海」


「ああ」


テオ様は短く頷いた。


「いつか、お前も、その色を見るといい」


「……はい」


それしか応えられなかった。


長机の上の古文書のページを、テオ様がゆっくり一枚めくった。

そのめくる動作が、いつもよりわずかに遅い。


旧図書室の西の窓の外で、午後の光がもう一段低く降りていった。

昼休みの鐘が、廊下の遠くで鳴り始めた。


「そろそろ、戻ろうか、特待生」


テオ様が長机の縁に置いていた指先をゆっくり持ち上げた。


「……はい」


私はノートを閉じて立ち上がった。

テオ様も古文書を閉じて、長机の脇に立った。


氷青の銀の髪が、立ち上がる拍子に揺れる。


それから私たちは、旧図書室の重い石造りの扉の方へ歩き出した。

旧図書室を出て、本校舎の北廊下を教室の方へ戻り始めた時。


廊下の向こうから、こちらへ歩いてくる人影が二つあった。


——マルガレーテ学院長。


学院長の銀色の髪を高く結い上げた姿は、私には遠目にもすぐにわかった。

深い濃紺のドレスの上に学院長の徽章が薄く光っていた。


そして学院長の隣に、もう一人。


——あの人。


学院長の隣を歩く女性は学院の制服を着ていた。

アッシュブラウンの長い髪の、毛先のひと房が胸の前で軽く揺れていた。


横顔の輪郭が午後の光の中で穏やかに整っていた。


——あの人が。


私の隣でテオ様の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

気づかない者には止まったかどうかさえわからないほどの一瞬だった。


けれど共鳴系の私の体には、テオ様の中で何かが動いたのが伝わってきた。


「テオドール殿、お疲れさまでございます」


学院長の声が廊下の少し手前で先に届いた。


「これは、学院長。お疲れさまです」


テオ様もすぐに、留学生の礼の温度で応えた。

学院長と中央魔導院の留学生の前で見せる、表向きの完璧な品格。


私は猫背気味の角度をさらに一段下げて、廊下の壁際にひと歩寄った。

すれ違いざま、その人の琥珀色の瞳が一瞬、私の方を見た気がした。


見た、というよりも流しただけだったかもしれない。


けれどその一瞬。


——揺らいだ。


右の手首のブレスレットの薄水色の石の奥でアルフォンス様の火の核がひと粒、わずかに揺らいだ。


ほんの一瞬だった。


説明できない。


「なぜ」も「どうして」も、私の中で形を持たなかった。


ただその一瞬、火の核の温度が、ふだんの灯りから別の温度に動いたということだけが共鳴系の私の体に伝わってきた。


——アルフォンス様の火が、揺らいだ。


私はその「なぜ」を内側に抱えたまま、猫背気味の角度を保った。

学院長とその人は、私たちの脇を変わらぬ足取りで通り過ぎていった。


「テオドール殿、また後ほど」


学院長の声が廊下のもう少し向こうから低く届いた。


「ええ、お時間のあるおりに改めて」


テオ様も乱れない声でそれだけ返した。


それから学院長とその人の足音が、廊下の向こうの曲がり角の方へ静かに遠ざかっていく。


私は廊下の壁際から、ようやく自分の位置に戻った。


テオ様も、止まっていた足をまた進め始める。

テオ様は何も言わず、私も何も訊かなかった。


教室への廊下を歩きながら、私はもう一度右の手首のブレスレットを左の手のひらでそっと確かめた。


——温かい。


火の核はもう、もとの灯りに戻っていた。


さっきの一瞬の揺らぎはまるで夢のように、もうその薄水色の石のどこにも、何の名残もなかった。


——けれど、揺らいだ。


その事実だけは私の中に確かにあった。


廊下の窓の外で、秋の気配の風がもう一吹き、葉先を薄く鳴らして通り過ぎていった。


放課後、私は教室を出て、北方寄宿舎の方へ戻り始めた。


夕方の薄い橙色の光が、古い石壁の蔦をなぞっている。葉先のわずかな赤が、もう一段だけ深い。


旧図書室の長机にテオ様がいる時間は、もう一日ずつ短くなっていた。


それから私は右の手首のブレスレットを、そっと指先で確かめた。


——まだ、温かい。


それだけが、いまの私の中のいちばん確かなことだった。


私はいつもの猫背気味の歩幅で、北方寄宿舎の三角屋根の方へ歩いていった。


秋が、もうじき来る。



※本作はnoteでも掲載中です。

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