第1話「足音の正体」 前半②
学院長室の扉の前で、テオドールは一度だけ息を整えた。
午後の薄い光が、本校舎の南翼の最上階の窓の上を低くなぞっていた。
学院長の執務室は南翼のいちばん奥にある。
テオドールがこの扉の前に立つのは、入学時のご挨拶以来二度目だった。
——二度目の理由を、テオドールは知っていた。
(……セリーヌ・ヴェル・マレ。中央魔導院第三席・古代水術式の研究者・年十五)
胸の内側で、その名をもう一度だけ確かめた。
今朝、学院長から「新しい留学生の到着の場に立ち会っていただきたい」と短い使いが来た。
表向きは王家直属の留学生と中央魔導院の留学生の顔合わせ。裏は、二つの権力体のあいだに学院長自身を一度置くというその一手だった。
テオドールは眼鏡の縁を、指先で軽く整え直した。
それから、扉を二度低く叩いた。
「お入りください」
学院長の声が、扉の内側から低く促した。
テオドールは礼の角度を整えてから扉を開けた。
執務室の天井は高く、東の窓の向こうに学院の中庭の木々が見えていた。
書架は壁の三方を覆って、革の背表紙の色が午後の光の中で深い飴色に沈んでいた。
学院長は窓を背にした執務机の脇に、ゆっくりと立っていた。
——マルガレーテ・ヘルムシュタット。
聖アステリア魔導学院長。
年は六十をひとつ超えた婦人。
銀色の髪を高く結い上げて、深い濃紺のドレスの上に学院長の徽章だけを薄く留めている。
鋭くも温かい灰色の瞳。
背筋が長く伸びていて、年齢を感じさせない毅然とした立ち姿だった。
アクアニアの第二王子テオドールの正体を学院全体でただ一人知る人物。
テオドール自身が告げたわけではない。それでも、この婦人は知っていた。
それでも学院長は入学の日から、表向きは「氷魔法の留学生」の礼節だけを保ち続けていた。
——そして執務室の壁際の革張りの椅子に、もう一人。
「テオドール殿、ようこそ」
学院長の声に促されて、テオドールはその一人に視線を移した。
——アッシュブラウンの長い髪。
——深い緑の瞳。
——アクアニアの礼装の上に、中央魔導院の白い羽織。 革張りの椅子から、その人がゆっくり立ち上がった。
十五歳の少女だった。
アッシュブラウンのなめらかな髪が肩の下まで流れていて、毛先のひと房だけが胸の前で軽く揺れていた。
深い緑の瞳が、午後の光の中でわずかに翠色に滲んでいた。
顔立ちは穏やかで整っていて、口元には初めて会う者への控えめな微笑が薄く置かれていた。
——優しい少女、に見える。
その第一印象を、テオドールは内側でだけ受け取った。
「アクアニア中央魔導院第三席、セリーヌ・ヴェル・マレと申します」
低く、よく通る声だった。
優雅で軽い、けれど確かな響き。アクアニアの上流階級の語尾の落とし方が、その一文の中に薄く残っていた。
「テオドール・アクアニアです」
テオドールも、礼を返した。
——「テオドール・アクアニア」。
王子の身分を伏せて、ただの留学生として名乗った。
学院長の前であっても、表向きの名乗りは崩さない。
それが学院全体で通している顔だった。
セリーヌの深い緑の瞳が、ほんの一瞬だけテオドールの瞳を見た。
——見えた。 その「見えた」の意味を、テオドールは内側で受け取った。
セリーヌは知っている。「テオドール・アクアニア」が誰なのかを。
中央魔導院の第三席が王家の第二王子の本当の名を知らないわけがなかった。
そしてテオドールもまた、見ていた。
セリーヌ・ヴェル・マレの深い緑の瞳の奥に、中央魔導院が育てた王家への一つの問いが薄く沈んでいるのを。
(……「お前は、何のために、ここにいる」)
互いの瞳の中で、その問いだけが礼の角度の下を低く滑った。
「セリーヌ殿は明日からの編入手続きのため、本日こちらにお越しになりました」
学院長が、平らな声で続けた。
「テオドール殿には、アクアニア出身の先任の留学生として本日のご紹介の場にお立ち会いいただきました」
「光栄に存じます」
テオドールは、礼の角度を低くも高くもしなかった。
——「アクアニア出身の先任の留学生」。
学院長はそう言った。
「先任」という一語の中に、学院長としての繊細な舵が薄く置かれていた。
中央魔導院第三席の少女に対して、王家直属の第二王子を「先輩」として立てる。
それで二人の上下を表向き整えてから、横並びの探り合いを赦したということだった。
(……毅然と、お置きになる)
テオドールは、その学院長の手腕を内側で受け取った。
入学の日からこの婦人は、表向きは「氷魔法の留学生」の礼節だけを保ち続けてきた。
けれどその瞳の奥に、テオドールが第二王子だと最初から知っている人間の温度が薄く確かに置かれていた。
アクアニア王家からの内密の通達なのか、それとも別の経路で知ったのか——テオドールにはわからない。
(……あるいは、それは、もっと古いどこかから)
その輪郭まで踏み込むことを、テオドールは今日もまた自分の中で止めた。
「セリーヌ殿、こちらにご署名を頂戴できますでしょうか」
学院長が、執務机の上の書類を片手で軽くまとめた。
「承知いたしました」
セリーヌは、執務机の前へ静かに歩いていった。
学院長はその瞬間、執務室の隣の小部屋の扉の方へ視線を流した。
「失礼。書類の続きを、隣の部屋から取って参ります」
——学院長が、席を外す。
その所作の中にテオドールは、長年の学者の知恵を見た。
第二王子と中央魔導院第三席という表向きは知らないことになっている二人を、わざと数分だけ二人きりにしてくれた。
学院長の口元がほんの一瞬だけ、内側の何かを伝えてきた。
(……あとは、お二人で)
学院長の足音が小部屋の扉の向こうへ消えていった。
学院長室の中に、テオドールとセリーヌだけが残された。
「テオドール殿下」
セリーヌは、執務机の前で書類に署名を続けながら振り返らずに名を呼んだ。
——殿下。 その音を、テオドールはほんの一瞬だけ受け取った。
学院全体で通している「テオドール・アクアニア」ではなく、本来の名で呼ばれた。
学院長が席を外した、その数分のあいだだけの呼称。
「セリーヌ殿」
テオドールも、表向きの呼称を一段下ろした。
「中央魔導院も、ずいぶん若い方を派遣されたものだ」
「殿下のお留学が終わるおりですので」
セリーヌは、署名を続けた。
羽根ペンの音が、執務室の高い天井に低く響いた。
「中央魔導院としても、結果を急いでおりまして」
——結果を、急いで。
その言葉の選び方を、テオドールは内側で受け取った。
「アクアニアからの留学」の終わりに合わせて、中央魔導院は次の手を打ってきた。長く置く者ではない。
短く、確かに、結果を取って帰る者。
それがいま、テオドールの目の前で署名している少女だった。
セリーヌは羽根ペンを置いて、ようやく振り返った。
深い緑の瞳が、テオドールの瞳をまっすぐに見た。
「殿下が、お留守のあいだは」
「……」
「アクアニアのことを、わたくしが、こちらでお預かりいたします」
——お預かりいたします。
テオドールはその言葉を内側で二度繰り返した。
表面の温度は完璧な礼儀の中にあった。
けれどその下に置かれたものは、別のものだった。
「アクアニアのこと」を「預かる」と言う時、何を預かるのか。
中央魔導院は何を見にここへ来たのか。深海の魔女の娘か。
あるいは、王家の第二王子の半年の動きそのものか。
(……あるいは、その両方か)
「ご丁寧に」
テオドールはそれだけ応えた。
応えるための声はいつもの留学生の温度のまま、平らに整えられていた。
(……お前は、何を預かるつもりでも、構わない)
胸の内側で、別の輪郭が立ち上がった。
(……あの娘は、自分が何者か、もう知っている)
——「お前は、自分が何者か、もう知っている。それを、忘れるな」。
旧図書室の扉の前で、テオドールは一度だけリアネにそう告げた。
あの言葉はリアネの中に置かれた。
だからセリーヌがどんな名目でリアネに近づいても、リアネの内側の輪郭はもう誰にも預けられないものになっていた。
それが、テオドールの今日のいちばん深いところの安心だった。
セリーヌの口の端がほんの一瞬だけ、礼儀の角度を保ったまま緩んだ。
——届いた。 互いに、届いた。
その「届いた」を二人とも、表には一切出さなかった。
学院長室の扉の向こうから、マルガレーテの足音が戻ってくる気配があった。
セリーヌは振り返らずに、もう一度執務机の方へ向き直った。
「殿下、明日からの編入でまた」
「ええ」
学院長が扉を開けた瞬間、執務室の空気の温度はいつもの公的な薄水色の輪郭に戻っていた。
誰も、何も、見せなかった。
——薄い絹で包んだ氷の刃。
テオドールはその輪郭をもう一度、内側で確かめた。
セリーヌの完璧な礼の角度には、刃の冷たさが薄く滲んでいた。
けれどその冷たさは、刃そのものではなく刃を包んだ絹の白さの方に滲んでいた。
だからこそ刃の存在に気づくのは、刃の持ち主か刃を扱える者だけだった。
(……気づかない者には、優しい少女に見える)
リアネの顔がテオドールの胸の内側で、ほんの一瞬だけ立った。
(……けれど、あの娘の中の輪郭は、もう、お前のような者にも預けられない)
その輪郭が立った瞬間、テオドールの右手の指が執務机の縁の上で短く動いて止まった。
「テオドール殿、本日はありがとうございました」
学院長が、書類を片付けながら低く礼を述べた。
「いえ」
「セリーヌ殿、明日からの編入手続きはこちらでまた」
「承知いたしました」
セリーヌも、丁寧に頭を下げた。
テオドールは、学院長室の扉に向けて静かに歩き出した。
すれ違いざま、セリーヌの羽織の白い縁がテオドールの黒の制服の袖をほんの一瞬かすめた気がした。
それはかすめたというよりも、ただ近づいただけだったかもしれない。
テオドールは扉を開けた。
学院長室の窓の外で、午後の光がもう一段低く降りていた。
テオドールは南翼の最上階の廊下を、いつもの歩幅で歩いていた。
革靴の音が、磨かれた石の廊下の上で低く響いていた。
氷青の銀の髪が、廊下の風の中でわずかに揺れていた。
眼鏡の縁を、もう一度だけ指先で整えた。
——残された時間は、そう多くない。 胸の内側でその数を低く確かめた。
王家としての二年間の予定の留学は、入学から半年でいったん終わる。アクアニアへ一度戻り、何が起きているのかを確かめる。
そのあいだにセリーヌは学院に入る。
リアネと同じ場所でリアネを見る。
(……あと、わずかだ)
九歳の春の書架室で父アルベルトから「深海の魔女の娘を見つけ出せ」と頼まれた、あの日の自分の声。
それといまの自分の声が、廊下の高い天井の下で低く重なった。
——「お預かりいたします」とセリーヌは言った。
——「お前は、自分が何者か、もう知っている」と、私はリアネに告げた。
その二つがいま、テオドールの中で同じ重さに置かれていた。
セリーヌが何を預かるつもりでも、リアネの内側の輪郭はもうリアネのものだった。 ——それが、半年でテオドールが置いていけるすべてだった。
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