第1話「足音の正体」前半①
——足音が、廊下の奥に消えていった。
寮の廊下の方から聞こえた、夜のあの足音。寮母さんの足音とも警備の人の足音とも違う、少し軽いけれど確かな足取り。その前で立ち止まった気配。「……アクアニアから参りました」「テオドール様にお取り次ぎを」。優雅でよく通る女性の声。
その声の温度がいつまでも、夜の藍色のいちばん深いところに残っていた。
私は自分の部屋の窓辺の椅子の上で、しばらく動けなかった。
右の手首のブレスレットの薄水色の石のいちばん深いところに、アルフォンス様の火の核が灯っていた。昨夜アルフォンス様が、夜の中庭からガラス越しに預けてくれた小さな核。それと夜の廊下の女性の声が、私の中で別々の場所に置かれたまま消えなかった。
——アルフォンス様の、火。
——アクアニアから来た、知らない誰か。
その二つが夜の藍色のいちばん深いところで、別々の温度を持っていた。
窓の外で、夜の藍色がゆっくり朝の薄い灰色に変わり始めていた。
私はようやく窓辺の椅子から立ち上がった。
机の上に開いたままの本を閉じた。革の背表紙の感触は、昨日のままだった。窓辺の木の人形も同じ場所に立っている。古い木の本棚も古い木のベッドも、昨日と何も変わらない。
——変わったのは、右の手首だけ。
胸の中で確かめた。
朝の支度を、私はいつもの順番で始めた。
まず亜麻色の髪を一つに束ねる。きつく結びすぎず、ゆるく結びすぎず、決まった加減で。鏡の中の私の顔が、ぼやけた輪郭で映っていた。私の本当の顔は母様譲りの、たぶん少しだけ整いすぎた線をしている。それを薄く隠す膜のように、その加減で髪を束ねる。
それから机の上の黒縁眼鏡をかける。レンズの向こうの世界が、薄いぼやけ方に変わる。眼鏡をかけた瞬間、私の中の水属性の核がふっと一段奥に沈む感覚があった。
——母様が、出発の朝に渡してくれた魔道具。
この眼鏡は二つの仕事をする。母様の系譜の水属性を外には漏らさないように内側へ封じる仕事。それから、母様に似た私の素顔を薄く隠す仕事。
その二つを、私は毎朝確かめていた。
最後にブレスレットの位置を整える。
——右の手首。
兄様が十二歳の春にドロップアウトしてフェルンハイムの家を出ていく前、何度も術式を刻み直して私に渡してくれた手作りの守り。薄水色の石のついた銀の鎖。その石のいちばん深いところに、今朝もう一つ別の温度が灯っていた。
——アルフォンス様の、火の核。
私はブレスレットの上に左の手のひらをそっと重ねた。
——温かい。
ひと粒、確かにそこにあった。昨夜の夢ではなかった。
「私が隠すのは、ただ、静かに生きるためだ」
——その言葉を、私は今朝も自分の中でもう一度確かめた。
母様譲りの水属性の底の深さを、外には漏らさない。母様に似た素顔を誰にも見せない。眼鏡で、ブレスレットで、亜麻色の髪で、猫背で——そうやって私の輪郭を作る。
ただ、静かに生きるために。
それだけのために、私はそれを保ってきた。
それは入学式の朝も今日の朝も、何も変わらなかった。
ただ、たった一点。
右の手首の石の奥に昨夜から灯る小さな火の核だけが、いつもの朝の中のたった一つの差分だった。
部屋を出る前に、私はもう一度机の上の小さな氷の結晶を確かめた。
昼休みの旧図書室でテオ様がそっと手渡してくれた、握りこぶしより小さい氷の結晶。来年の夏の盛りまでは溶けないというテオ様の言葉の通り、まだ机の上のその場所に立っていた。
その薄い白い肌が朝の薄い灰色の光をわずかに屈折させていた。
——テオ様は、まだここにいる。
「来月いっぱいで、一度ご帰国」と廊下の三人の声は言っていた。テオ様自身も「来月、アクアニアに一度戻ることになった」と私に告げてくれた。あれからの日数を数えれば、テオ様がここにいてくれる時間はあと一ヶ月。
——一ヶ月。
胸の奥でその数を、低く受け取った。
それから机の上の結晶の脇を、指先で一瞬かすめた。冷たさが、変わらずそこにあった。
寮の廊下に出た時、私は思わず足を止めた。
廊下のいまの空気は、朝の温度に戻っていた。
私はその場所を自分の足で通り過ぎた。共鳴系の私の体が廊下の空気の中に、夜の女性の魔力が薄く残っているのを感じ取っていた。火属性のアルフォンス様の温度とも、テオ様の氷の温度とも違う。もう少し低い、けれど深い水属性の温度。
——水属性、だ。
私の中でその輪郭が立った。
アクアニアの中央魔導院から派遣されてくる、もう一人の留学生。テオ様が告げてくれた「年は十五」「俺と同じ目的で来るとは限らない」、あの人。
——もう、来ている。
廊下の空気の名残が、私にそれを教えてくれた。
学院への道を、私はいつもの猫背気味の歩幅で歩いていた。
朝の薄い灰色の光が、北方寄宿舎の蔦の絡んだ古い石壁の上をなぞっていた。秋の気配がもう、夏の終わりの風の中に混じり始めていた。
私の前にも後ろにも、まだ生徒の姿は少なかった。
廊下の遠くで、誰かが小声で話す気配があった。
「ねえ、ご存じ?」
「アクアニアから、もう一人いらしたって」
「氷魔法じゃなくて、水魔法のお方ですって」
「年下とか、年上とか?」
「十五歳。学院の最終学年級に編入されるそうよ」
私はその声を、猫背気味の角度で受け取った。聞いていないふりで、ノートの上の自分の指先だけを見ているふりで。
学院の私の知らないところで、すでに何かが動き始めていた。それが噂の速さで、私のところまで届いた。
声にはしなかった。
ただ、右の手首のブレスレットの石の奥の小さな火の核を左の手のひらで確かめた。
——温かい。
それだけがいまの私の中の、いちばん確かなことだった。
教室に入る前の、本校舎の北廊下。
私はその北廊下の途中で、もう一度足を止めた。
——旧図書室。
北廊下のいちばん突き当たり。テオ様がいる場所。
今日もまた昼休みに、私はあの重い石造りの扉を開けることができる。テオ様はまだ、長机の向かいの椅子に座っていてくれる。
それから教室の扉の方へ、猫背気味の歩幅で歩き出した。
朝の鐘が、廊下の遠くで鳴り始めていた。
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