第2話「母を知る人」後半②
——次の日の放課後も、旧図書室にはアルフォンス様がいた。
西の窓の夕方の光が、昨日より少しだけ傾いて書架の谷間に差していた。
長机の向こう側のテオ様の椅子は、放課後はいつも空いている。
その椅子には座らずに、アルフォンス様はこちら側に腰を下ろしていた。
私はその隣の席に座って、しばらく迷っていた。
——話して、いいのだろうか。
私がずっと一人で抱えてきたもの。
いちばん深いところに、戦う覚悟として沈めてきたもの。それを、アルフォンス様に話してしまっていいのだろうか。
私は、そっと指先を持ち上げた。
昨日と同じように、水のほうからゆっくり広がってもらった。
また、水の膜が二人を包んだ。廊下の足音が、すっと遠ざかった。
——結界。
二人だけの、小さな空間。
その膜の中の静けさが、私の背中を、そっと押してくれた。
「アルフォンス様」
私は、低く呼んだ。
「私の、母様の話を……してもいいですか」
アルフォンス様は金の瞳をこちらへ向けて、それから低く「ああ」と応えた。
「母様は、アクアニアで……深海の魔女と呼ばれていた人なんです」
私は、ひとつずつ言葉にした。
「すごく強い魔術師だったって……いつか、テオ様が教えてくれました。強すぎる魔術師は、国にとって力にも危険にもなる。母様はそのどちらにもなりたくなくて消えたんだ、と。私は——その人の、娘なんです」
声に出すのは、初めてだった。
ずっと一人で、自分の奥にしまってきた言葉だった。私は、深海の魔女の娘だ。その覚悟を私はこの旧図書室で初めて、自分以外の誰かに渡した。
「私の水が最下位の擬態なのも、眼鏡で隠しているのも、目立たないようにするためなんです。母様みたいに、誰かの力にも、危険にもならないように」
水の膜の中で、私の声はどこにも漏れずただアルフォンス様にだけ届いた。
アルフォンス様の金の瞳が、一瞬だけ遠くを見た。
——今年の夏、私の家の井戸端で、母様に会っている。
あの穏やかな母様が深海の魔女だったと、アルフォンス様はいま、結びつけたのかもしれなかった。
アルフォンス様は、しばらく何も言わなかった。
それから低く短く、こう言った。
「……俺も、特別だと言われ続けた」
——え。
「火が強すぎて、近づくと焼ける。だから、誰も寄ってこなかった。生まれてから、ずっとだ」
それだけだった。
それ以上、アルフォンス様は語らなかった。けれどその短い一言の底に沈んだ温度を、共鳴系の私の体だけがまっすぐに受け取った。
——熱すぎて、誰も近づけなかった人。
私が「隠さなければ」生きてこられなかったように、アルフォンス様は「焼いてしまう」から誰にも近づかれずに生きてきた。
同じ「特別」だった。
私のは隠すべき恐怖の言葉で、アルフォンス様のは孤独の烙印で。形は違うのに、その底のいちばん深いところで二つの「特別」が静かに重なった。
「だから」
アルフォンス様が、低く続けた。
「お前が、何を抱えていても。俺は、焼かない」
水の膜の中で、私の右の手首のブレスレットの火の核がいつもよりほんの一段だけやわらかく灯った。
——焼かない。
その一言が、私の中のいちばん奥にまっすぐ届いた。
私が一人で抱えてきた覚悟は、いま半分だけアルフォンス様の中にも移った。一人で持つには重すぎたものが、少しだけ軽くなった気がした。
「……ありがとう、ございます」
私は、それだけ言った。声が、少し掠れた。
私は、指先から水の膜をほどいた。
水は、静かに夕方の空気へ帰っていく。
遠ざかっていた足音が、また廊下に返ってきた。
結界が解けて、長机のまわりが世界の続きに戻った。
「そろそろ、戻るか」
アルフォンス様が、立ち上がった。
「……はい」
扉の方へ歩きかけて、アルフォンス様はふと足を止めた。
それから、金の瞳でこちらを一度だけ見た。
「……お前、最近」
そこで、アルフォンス様の言葉が止まった。
何かを言いかけて、その何かをアルフォンス様自身もうまく掴めていないようだった。
「……いや。なんでもない」
アルフォンス様はそれだけ言って、また扉の方へ歩き出した。
——最近。
私は、その続きをなんとなく分かってしまった。
セリーヌさんとの、昼休みの時間。
アルフォンス様にまだ話していない、私の中のもう一つの時間。
アルフォンス様はその輪郭を言葉にはできないまま、ただ気配だけで感じ取ったのかもしれなかった。
私は、それを説明しなかった。
旧図書室の重い石造りの扉を開けて私たちが北廊下へ出た、その瞬間だった。
——藍色。
北廊下の、曲がり角の向こう。
あの夜と同じ温度が、ひと筋、私の肌の奥をかすめた。
私は、振り返った。
けれど、廊下には誰もいない。夕方の薄い光が、北廊下の石の壁をなぞっているだけだった。
——気のせい。
そう、思おうとした。
けれど共鳴系の私の体だけは、たしかにいまあの藍色を一筋拾っていた。さっきの結界の中の話を、誰かがあの曲がり角の向こうで聞いていたのではないか。その問いが、私の中にひと粒、薄く立った。
確かめる術は、ない。
私はその問いを胸の底に留めたまま、アルフォンス様の隣をいつもの猫背気味の歩幅で歩いていった。
手首の火の核も、もとの温もりを取り戻していた。
——焼かない。
その一言だけが、いまの私の中のいちばん温かい場所に灯っていた。
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