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幕間「焦がさない、と決めた」




その夜、寄宿舎の自室で、アルフォンスは一人だった。


火は、もう抑えられる。幼い頃のように、制御の限界で揺れることはなくなった。


それでも、体質までは消えない。

気を抜けば、机の木目がうっすらと焦げる。

感情が大きく揺れれば、火は外へにじみ、まわりの空気の温度を数度跳ね上げる。

触れれば、火傷をさせる。生まれついての、そういう体だった。

だから、誰もその隣には立てなかった。


——フェルドラクの血は、強さのためにある。誇れ。


父の声が、ときどき、よみがえる。この火は侯爵家の誇りであり、同時に、誰も寄せつけない檻だった。アルフォンスは、その両方を、当たり前のものとして背負ってきた。


その手で、今日、あの子に告げた。


焼かない、と。


リアネは、自分の素性を、初めて声に出した。


深海の魔女の、娘。


その言葉を聞いたとき、アルフォンスの中でひとつ、裏返ったものがあった。


今年の夏、フェルシーアの家を訪ねた。麦畑のなかの、井戸端。

そこにいた、リアネの母。穏やかで、よく笑う、どこにでもいそうな人だった。


その人は、麦の匂いのする手で、アルフォンスに井戸の水を汲んでくれた。


アルフォンスは、両手で、その素朴な湯呑みを受け取った。

侯爵家の食卓の銀器を扱うのと同じ、ていねいな手つきで。差し出されたものを粗末にしないのは、幼い頃から体に染みついた作法だった。


——火傷ひとつ、しなかった。


アルフォンスの熱を、その人は少しもこわがらない。

よく冷えた水を湯呑みになみなみと注いで、「遠いところを、ようこそ」と笑った。


帰り際にはアルフォンスを見て、「夏の日の名残みたいな男の子ね」と、もう一度笑った。


意味は、いまも分からない。けれど、その言葉は、なぜか長く耳に残った。


アルフォンスは、その手と声を、忘れられずにいた。


幼い頃の記憶がある。


母は、寝室の扉越しに、子守唄を歌っていた。

まだ火を抑えきれなかった幼い頃、近づけば火傷をさせるからと、母は部屋に入れなかった。

いつも扉の向こうから声だけを届けてくれて、その声は少しだけ、泣いているように聞こえた。


それが、アルフォンスの知っている「母の手」。


なのに、リアネの母は、扉の向こうにいなかった。素手で、火を持つアルフォンスに、水を差し出した。


——あの人が、深海の魔女。


国を一人で押し返したと言われる、あの大魔女が、あの穏やかな人だったのか。


知って、アルフォンスは、驚かなかった。

むしろ、腑に落ちた。

リアネの水の底に感じていた深さの理由が、ようやく分かった気がする。


アルフォンスは、最初から、あの子を見ていた。


理由を、うまく説明できたことはない。

最下位の札を貼られ、息を殺して廊下の端を歩く、目立たない平民の少女。誰の記憶にも残らないように生きている、その奥に。

アルフォンスの目だけは、最初から、途方もない水を見ていた。


——俺だけが、知っていればいい。


そう決めたことだけは、覚えている。


リアネの手首のブレスレットに、自分の火の核を預けた。焔の契約などと、もっともらしい名をつけたが、中身はもっと単純なものだった。

あの子のいちばん近くに、自分のものを、ひとつ。


それを、アルフォンスは、誰にも言わなかった。


ひとつ、分からないことがあった。


結界が解けたあと。リアネの水が、ほんの一瞬、深いところで動いた。

その瞬間、アルフォンスの火が、芯から小さく傾いた。


外へ向かったのでも、何かを焦がしたのでもない。芯が、ことりと傾いた。それだけだった。


こんなことは、これまで一度もなかった。


自分で抑えることはできても、火の芯そのものは、アルフォンスにも動かせない。水をかけても、風で煽っても、芯までは届かない。

その芯が、リアネの水の気配ひとつで、傾いた。


理由は、掴めなかった。体だけが、何かを知っている。けれど、その何かに、まだ名前はなかった。


窓の外で、夜風が揺れた。


ルミエール公爵家との縁談の話を、アルフォンスは知っている。

家が、まだ正式には断っていないことも。


カトリーヌは、何も悪くない。

家格でいえば、あちらが正しい。フェルドラクの隣に並ぶのは、本来、あちらのはずだった。

家と家のあいだの話として、それが筋であることを、アルフォンスは正しく理解していた。


理解した、そのうえで。


アルフォンスは、自分の掌を見た。あの子の隣にいたときの感覚が、まだそこに残っている。


家の決めた筋書きを覆すのが、どれほどの重さを伴うかも、跡継ぎとして分かっていた。分かっていて、なお。


——渡さない。


その言葉だけは、もう、決まっていた。


抑えていても、アルフォンスの火は、焦がす火だった。触れたものを焼き、近づいたものに火傷を負わせる。ずっとそうやって、誰も寄せつけずに生きてきた。


なのに。


——焼かない。


今日そう言ったのは、強がりでも、その場しのぎでもなかった。


焼く力を、ぜんぶ持ったまま。それでも、あの子だけは。


何もかもを焦がす火が、たった一人のためにだけ、焦がさないと決めた夜だった。






※本作はnoteでも掲載中です。

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