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第12話「同じ、夜」後半①



数日あとの昼、兄様がまた、王宮に現れた。


「よう。仕事のついでだ」


ついで、の顔で稽古の間に入ってくる——その入口で、出ていくテオ様とすれ違った。

テオ様が、足を止めて、小さく目礼をする。

兄様は、片手を上げる代わりに、頷きをひとつ返した。

それだけだった。言葉は、ひとつもない。すれ違って、それぞれの方向へ。

二人が顔見知りなのは、知っている。学院にいた頃から。でも——いまの頷きは、顔見知りの間合いより、少し近かった気がした。訊いても、きっと「さあな」で終わる。兄様は意味のないことをしない人で、意味のあることを、言わない人だ。

兄様は水盤をひとつ覗いて、私の顔をひとつ見て、検分を終えた。


「——だいぶ、下がったな」


「うん。手のひら、ひとつぶん」


「顔も、変わった」


え、と手が頬にいく。兄様は笑って、水盤の縁を指先でひとつ叩いた。


「……母様は、元気?」


訊きたかったことを、やっと訊けた。


「ああ。相変わらず、井戸端で水と話してるよ」


「私のこと、心配してるよね」


「元気でやってる、とだけ知らせてある。……まあ、あの人のことだ。手紙に書いてないことまで、たぶん全部分かってるけどな」


だろうな、と思った。あの人は、そういう人だ。帰ったら、いちばんに謝ろう。心配をかけたことを。それから、話そう。井戸端のあの手つきを、私も覚えたよ、と。

兄様は、もう帰り支度を始めていた。相変わらず、嵐みたいな人だ。扉の前で、思い出したように振り返る。


「迷ってんのか」


不意打ちだった。何について、とは言わない。言わないのに、何についてなのか、分かってしまった。


「……ううん」


答えは、考えるより先に出た。


「もう、迷ってない」


「そうか」


兄様はそれだけ聞いて、満足したように片手を上げて、帰っていった。

迷ってない。

自分の口から出た言葉が、部屋に残って、私を見ていた。そうか。私はもう、迷っていないのか。言葉が先に出て、心があとから、頷いた。




その夜、私は窓辺に座って、テオ様の言葉をもう一度だけ手のひらに載せた。

何日か、胸の中で預かってきた言葉だった。まっすぐで、重くて、優しい言葉。この言葉に報いるいちばん誠実なやり方は、返事を探すことではなくて——あの人が指した場所に私自身が、ちゃんと名前を付けることだと思った。

会える日までと決めて、開けずにきた場所を、開ける。

怖くは、なかった。怖くないことに、もう驚かなかった。

開けた場所にあったものは、思っていたよりずっと、静かな形をしていた。大潮の夜よりも前から——たぶん、稽古の水盤の頃から、ずっとそこにあったもの。毎朝、石に指先を置くたびに、少しずつ確かになっていったもの。


名前を、付けた。


付けた名前は、誰にも言わない。紙にも書かない。この胸の中で、一度だけ、はっきりと呼んだ。呼んだら、体の中の水が高いままの水位のずっと奥で、ひとつ澄んだ。

帰る場所は、あの人の隣だ。




深海の魔女の娘、と、誰かが私を呼ぶらしい。保護、という優しい言葉で、この白い部屋は私を囲っている。記録は私の今日を知らない言葉に書き替えて、王宮は私の明日を、私に訊かずに数えている。

いい。呼びたいように、呼べばいい。

どの名前も、私の帰る場所までは、決められない。

私の帰る場所は、私が決める。今夜、決めた。海がどれだけ広くても手続きの糸がどれだけ絡んでいても、決めるのは、この胸だ。フェルンハイムの井戸端で水を帰していた母様が、水の帰る先を知っていたように——私も私の帰る先を、もう知っている。

返事の言葉は、まだ言わない。

海を越えて、顔を見て、私の声で言う。それまでこの名前の付いたものは、誰にも渡さずに、私が持って歩く。あの人が、言いたいことを会える日まで持って歩いてくれているのなら——私も同じ荷物を持って、同じ日まで歩くだけだ。

窓の外で、初夏の夜の水が、静かに光っていた。

明日も、朝が来る。石に指先をひとつ置く朝が。その朝から先の暦を、私はもう、迷わずに数えられる。







※本作はnoteでも掲載中です。


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