第12話「同じ、夜」前半③
その朝、テオ様は稽古の間に来て、椅子には座らなかった。
「今日の夕方、時間をもらえるか」
それだけ言って、公務の方へ歩いていく。予告をして、先に置いていく、あの言い方だった。
半日、私は考えて、考えないことにして——それでも考えた。あの言い方をする時のテオ様が何を持ってくるのか、私はもう、知っている。知っているから考えないことにしたのに、稽古の水は今日にかぎって、何度も手元で乱れた。
夕方の水辺の回廊で、テオ様は待っていた。
あの日と、同じ場所だった。付き添いの人に「外してくれ」と告げるのも、同じ。本を持っていないのも、同じだった。西日が水路の面で砕けて、回廊の柱を淡く照らしている。季節だけが、あの日と違う。春の水明かりは、もう初夏の光になっていた。
「リアネ」
まっすぐに、名前が来た。
「お前の心が誰のところにあるか、私は、分かっている」
前置きは、なかった。
「海の向こうの男が、毎朝、あの石に灯を送っている。お前が毎朝、それを待って一日を始める。稽古の間で、隣で、二月見てきた。……見ていれば、分かる」
何も、言えない。言われた言葉のひとつひとつが、全部、本当のことだった。
「その上で、聞いてほしいことが、ひとつある」
テオ様は、そこで初めて、少しだけ間を置いた。迷いでは、ない。手順を確かめる人の、静かな間だった。
「返事は、いらない。返事のために言うのではない。……お前はいずれ、自分の行く先を、自分で選ぶ。その日のお前の手元に、伏せられた札が一枚でも残っているのは、公正ではないと私は思う。私のこれも、札の一枚である以上は」
西日が、少しだけ傾いた。
「リアネ。——お前が、好きだ」
風が、回廊の水面を渡っていった。あの日と同じ風の音の中で、その言葉だけが、静かに立っていた。
「一度だけ言う。二度は、言わない。返事も、探さなくていい」
テオ様の目は、逃げ場を用意していない、いつものあの目のままだった。ただ、その奥がほんの少しだけ、笑ったように見える。
「お前は、知っておくべきだと思った。……私の気持ちも、だ」
返す言葉を、私は持っていなかった。
持っていないことを、この人は最初から知っている。知っていて、それでも言ってくれた。分かっていて言う、ということの重さを、私はこの夕方に初めて知った。
「……テオ様」
「言っただろう。返事は、探さなくていい」
「違うんです。あの……」
言葉は、続かなかった。ありがとうございます、は違う。ごめんなさい、は、もっと違う。受け取りました、がいちばん近くて、いちばん言葉にならなかった。
私は、結局、深く頭を下げた。
頭を上げると、テオ様は、いつもの顔に戻っていた。
「稽古は、明日からも続ける。氷の的も、私が出す。……何も、変わらない」
それだけ言って、歩き出して——今度は、振り返らなかった。まっすぐに、回廊の向こうへ歩いていく背中を、西日が長く照らしていた。
部屋に戻っても、あの言葉は、耳の奥でまだ鳴っていた。
お前の心が誰のところにあるか。
テオ様の言葉は、まっすぐな形のまま、届いた場所がひとつ違っていた。あの人の気持ちと一緒に、もうひとつのことが、まっすぐに差し出されていた。私の胸の中の、私がまだ名前を付けずにきた場所。ずっとそこにあるのに、会える日までと決めて開けずにきた場所を——あの人の言葉が、外から正確に指していた。
分かっていたのだ。私より先に、私の心の在り処が、あの人には見えていた。
窓の外で、初夏の夕方が、水の色に暮れていく。
名前を、付けなければならない。誰のためでもなく、私のために。その日が、もう、すぐそこまで来ている気がした。
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