第12話「同じ、夜」間章
カトリーヌ・ド・ルミエールは、今日も完璧だった。
婚約の成った日の夜会で、結い上げたプラチナブロンドの一筋も乱れていない。祝いの言葉を受けるたびに、唇の微笑は正確な角度でたわみ、正確な速さで戻る。ルミエール公爵家の令嬢として、それは呼吸と同じだった。今日からは、フェルドラク侯爵家の婚約者として、の呼吸でもある。
完璧な、婚約だった。家格は釣り合い、家と家は結ばれ、帳簿は整った。
ただひとつ。当のお相手が、あの卓で、まっすぐにこう言ったことを除けば。
——この縁談を、私は受けられません。
——この婚約に、私は同意していません。
わたくしは、あの言葉を、二つとも正面から聞いた。完璧な微笑のまま。微笑の下のどこか深いところで、聞き覚えのある細い音が、またひとつ鳴った。
不思議なのは、その音があの頃の音と、違う鳴り方をしたことだった。
あの頃のわたくしなら、あの席で、屈辱に焼かれていたはずだ。公爵家の令嬢が、卓の上で断られる。どうして、わたくしではなく——あの問いが、胸の中で何度でも跳ねたはずだった。
跳ねなかった。
代わりに、わたくしは、あの人の言い方を見ていた。
声を荒らげない。席を蹴らない。父君の顔色も、公爵家の格も、まるで見ていない。ただ一点、相手の名前だけを、最後まで言わなかった。家名を問われて、頭を下げた。あの人の頭の下げ方は、負けた人のそれではない。あれは——盾の形だ。
あの卓の上で、あの人はたったひとり、誰かを守っていた。
名前を帳簿に載せないという、それだけの守り方で。同意なき婚約を引き受けてでも、その名前だけは渡さないという、不器用で完璧な守り方で。
わたくしは、守られる側としてあの卓に座ったことが、一度もない。
どうして、わたくしではなく。——秋から冬へ、冬から春へと季節が変わるあいだに、あの問いの形は少しだけ変わってしまった。どうしてあの人は、ああなれたのだろう。氷のようだったあの人を、誰が、ああ変えたのだろう。
嫉妬の座っていた椅子に、いつのまにか、別の何かが半分だけ腰掛けている。それが何なのか、わたくしはまだ、名前を付けずにいる。
夜会の広間の奥で、扇がひとつ、止まるのを見た。
「——深海の魔女、ですって」
囁きは、海向こうの噂だった。アクアニアの王宮で、封印の檻を解いた娘がいる。その母の名が、深海の魔女。
「深海の魔女って、どなた?」
若い令嬢たちは、知らない名前に首を傾げて、すぐに次の噂へ移っていった。
移らなかったのは、年寄りたちだった。
大叔母様の世代の扇が、いくつも、同じ高さで止まっていた。ひと晩で嵐を鎮めた、という話。湖をひとつ、岸ごと静めた、という話。半分は御伽噺の顔をした逸話たちが、扇の陰で、低く生き返っていく。あの世代だけが、あの名前の重さを、体で覚えている。
「……その娘が、いま、アクアニアの王宮の中に」
誰かがそう結んで、扇の輪は、音もなく解けた。
わたくしは祝いの席の中央で、完璧な微笑のまま、それを聞いていた。
聞きながら——去年の夏の実技棟が、ふいに胸の奥で開いた。あの平民の娘の内側に見えた、見たことのない深い水。あの水と、海向こうの噂と、あの人が最後まで言わなかった名前と。
点が、三つ。
繋がりそうになった、その手前で、わたくしは扇を閉じた。
閉じた音が、思ったより、大きく鳴った。
夜会から下がった自室で、カトリーヌは髪飾りを外した。
星型の、銀の髪飾り。鏡台の上に置くと、燭台の火を受けて、冷たい光をひとつ返す。
去年の夏、この髪飾りから光の糸を伸ばして、あの娘の内側を見た。あの日のことを、なぜ、今夜にかぎって思い出すのだろう。
それから——あの秋、柱の陰で声をかけてきた、優しい編入生のことも。あなたも、あの子が気になるのね、と。知りたくなったら声をかけて、と。
あの人は、どうして、わたくしにあんなことを言ったのだろう。
問いは、形になる前に、燭台の火の中へ消えていった。鏡の中のわたくしは今日も完璧で、その完璧の下の細いひびの奥で——今夜、何かが半歩だけ動いた。
婚約者。今日からわたくしに掛けられた言葉も、たぶん、あの人の外套と同じ掛かり方をしている。
それでも微笑は、明日も正確にたわむ。崩し方を、わたくしはまだ、知らないままでいる。
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