第12話「同じ、夜」前半①
四月の終わりの午後、ルミエール公爵家の応接は、乾いた光で満ちていた。
高い窓。重い緞帳。磨かれた床に、春の光が長い四角を落としている。円卓を挟んで、両家が向かい合っていた。ルミエール公爵夫妻と、令嬢。フェルドラク侯爵と、その嫡男。人数は揃い、茶は注がれ、時候の言葉は行き交い終えて——席は本題の前の間合いに入っている。
「では」
と、父が言った。それだけで、卓の空気が入れ替わった。
「先の話の、続きを」
アルフォンスは、茶器を置いた。
この席に来るまでの一月、考えなかった日はない。言い方は、百通り考えた。どれも、席に着いた時に消えていく。残ったのは、いちばん短いものだけだった。
胸の内側の、いつもの場所に、布にくるんだ小さなものがある。この家の最初の書状が届いた、あの誕生日の晩に、あの子から渡ってきたもの。あの夜から、離したことがない。
篝火の窓辺で包みを開いた夜のことは、いまでも指が覚えている。水と火が、ひとつの小さな雫の中で、たがいを損なわずに固まっていた。外は彼女の水。中心に、俺の火。溶けないまま、あの夜から、ほのかに温かい。
「発言を、お許しください」
自分の声が、応接の乾いた空気にまっすぐ立つのが分かった。
「この縁談を、私は受けられません」
誰も、何も言わない。
「ルミエール家にも、カトリーヌ嬢にも、欠けたところはひとつもありません。理由は、すべて私の側にあります。……私には、心に決めた人がいます」
名前は、言わなかった。言えば、その名前をこの卓の政治の上に載せることになる。それだけは、しない。
沈黙は、思っていたより短かった。
「——お若いこと」
ルミエール公爵夫人が、扇の内側で微笑んだ。責める色のない、場の空気を割らないための、絹のような一言だった。
その隣で、ルミエール公爵が、茶器を静かに置いた。
「——相手の、家名を伺おう」
低い声だった。怒りの色は、どこにもない。帳簿の数字を確かめる声だった。
「……申し上げられません」
「家名を言えぬ相手か。それとも、家名のない相手か」
どちらです、と答えても、この卓の上では同じことだった。アルフォンスは、黙って頭を下げた。それ以外に、あの名前をこの卓に載せない方法が、ない。
「エルハルト卿」
公爵は、もう息子の方を見ていない。
「ご子息のお言葉は、返事の形をしておられぬ。家名のない理由は、家と家の話の前では、理由になり申さぬ。——では、本題を進めさせていただこう」
卓の脇に控えていた家令が、盆を運んできた。
盆の上には、書状が載っていた。二通。封もリボンも、両家の紋の座りも、すべてが整いきっている。この席が始まる前から、結論はここに用意されていた。俺の一月は、この盆の上では、初めから終わっていたのだ。
父が、署名する。公爵が、署名する。
「——父上」
声が出た。出してから、言葉を選んでいる余裕はなかった。
「この婚約に、私は同意していません」
暴れない。声も、荒らげない。ただ、卓の全員に聞こえる声で、はっきりと言った。
公爵が、初めて、アルフォンスをまっすぐに見た。値踏みでも、怒りでもない。帳簿の隅の但し書きを確かめる目だった。
「記録に、残そう」
静かな声だった。
「——同意なき婚約も、婚約である」
それで、終わりだった。
受けられません、は、退けられたのではない。精査されて、形式が足りないと判定されて——断りの資格のないまま、その上を契約が渡っていった。名前を言えば、あるいは止まったのかもしれない。言えば——彼女が、この帳簿に載る。国と国の卓の上に。だから言えない。言えないまま、俺の名前だけが、家長の手で帳簿に載った。
婚約は、成った。俺の同意だけが、どこにも載らないまま。
この国では、正しさがいちばん強い通貨で——そして家は、個人よりいつも正しい。
退出の間際、アルフォンスは一度だけ、令嬢の方を見た。
カトリーヌ・ド・ルミエールは、完璧な微笑のまま、両親の半歩後ろに立っていた。断られた席の後だというのに、その完璧さには、髪の一筋ほどの乱れもない。
ただ、退出の礼の直前に、一度だけ。
星型の銀の髪飾りに、白い指先が、触れた。
直すところなど、どこにもないのに。触れて、離れた。それだけの所作だった。
その完璧さの内側を、アルフォンスは今日も知らない。
家への馬車の中で、父は書類を読んでいた。
叱責は、なかった。問いも、なかった。保留のひと言で、息子の返事は家の暦の中に畳み込まれて、話はもう次の季節へ送られている。
それでも、と、アルフォンスは窓の外の乾いた街を見ながら思った。
同意していない、を、俺は言い続ける。今日の席で言った。明日も言う。
記録に残ると公爵は言った——なら、残り続ければいい。同意なき婚約が婚約であるなら、撤回されない拒否も、拒否のままだ。受理される日まで、何年でも、同じことを言い続けるだけだ。
窓の外を、春の終わりの光が流れていく。
婚約者。今日から俺に掛けられた言葉は、他人の外套のように、どこにも肌が触れなかった。海の向こうでは、いまごろ水の都に夕方が来ている頃だった。この帳簿の、どの頁にも載らないものが、俺にはひとつだけある。誰にも言わないまま、今日も、胸の奥にひとつ灯を待っていた。
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