第11話「また、朝に」後半②
朝の稽古の間で、私は水盤の前に、長いあいだ座っていた。
兄様の言葉を、ひと晩、抱えて眠った。フェルンハイムの井戸端。桶と、朝の光と、母様の指。毎朝あたりまえに見ていた景色を記憶の棚から下ろして、初めて、ちゃんと見る。
母様は、使い終わった水を、井戸へ返していた。
ただ捨てるのでも、流すのでもなかった。水面に指を置いて、少しだけ待って、それから手を引く。水が井戸の底へ降りていくのを、見届けてから桶を伏せる。あの少しの間は、何だったのだろう。子どもの私は、水と遊んでいるのだと思っていた。
あれは——汲んだ水に、もういいよ、と言ってあげる間だ。
押し戻すのではない。追い払うのでもない。来てくれた水に、帰っていい、と伝える間。
私は、水盤の水面に、指を置いた。
息を、整える。吸って、止めて——吐く息に言葉にならない言葉をひとつ、載せる。
帰して、いいんだ。
教わっていないのに、手が、覚えていた。井戸端で何百回も見た、あの手の引き方。指が水面を離れる、その速さまで。
水盤の水がすっと静まって——私の中の水面が、指一本ぶん、下がった。
初めて、だった。あの朝からずっと高いままだった水位が、ほんの指一本ぶん。なくならない。消えない。ただ、少しだけ、息がしやすくなる。
「……下がったか」
水盤の向こうから、声がした。
テオ様は、本当に来ていた。朝から稽古の間の隅に椅子を持ち込んで、書き物をしながら、時どきこちらを見ていた。
「はい。……指一本ぶん、ですけど」
「指一本は、ゼロではない」
それだけ言って、テオ様は書き物に戻った。戻りながら、口の端だけが、少し動いたのが見えた。
テオ様は、次の日も来た。その次の日も。
朝の稽古の間に椅子と書き物を持ち込んで、公務の合間をぜんぶここへ置いていくような顔で、水盤の向こうに座る。
「的があった方が、早いだろう」
そう言って、テオ様は指先から、薄い氷の器を生んで水盤に浮かべた。透きとおった、小さな器。私はそこへ水の糸を移して、待って、手を引く。そのたびに、内側の水面が少しずつ素直になっていく。指二本ぶん。三本ぶん。
氷の器と私の水が、朝の光の中に並ぶ。
……いつか、どこかで、火と水でこういうことをした。思い出しかけて、やめた。
「あの、テオ様。……王子さまが、こんなに暇でいいんですか」
「暇ではない。時間は、作るものだ」
顔も上げずに、そういう返しだけは速い。
何日目かの昼、テオ様は書き物を置いて、立ち上がった。
「歩くぞ」
「え?」
「都を、見ていないだろう。窓からしか」
廊下を出る。三歩後ろの、あの気配が——付いてこない。振り返ると、案内の人が頭を下げたまま、動かずにいた。第二王子の隣は、案内のいらない場所、ということらしい。
王宮の門を出て、水路の階段を下りて、テオ様は小さな舟を自分で操った。橋の下をくぐるたび、水明かりが顔の上を渡っていく。
「この都は、水の上にいる方が、正しい形に見える」
舟を降りた先は、市だった。果物の山。香辛料の呼び声。露店で粉ものの焼ける匂いが流れてきて、それが故郷の竈の匂いに、少しだけ似ていた。
「……帰りたい、なあ」
声にしてから、気づく。誰にも言えずにいた言葉が、雑踏の中で、こぼれていた。
テオ様は、笑わなかった。聞かなかったふりも、しない。舟の綱を結ぶ手を止めて、まっすぐに私を見た。
「なら、帰れるようにする」
「……え?」
「時間はかかる。相手は兄上と、二つの国だ。それでも、道はある。——私が、動く」
「テオ様、そんな……」
「言っただろう」
いつもの、先に置いていく言い方で、テオ様は綱の結びを締めた。
「指一本は、ゼロではない」
この人は、私がずっと言えずにいた言葉を雑踏の中から拾い上げて、そのまま自分の仕事にしてしまう。お礼の言い方が分からなくて、私はただ、頭を下げた。下げた頭の上を、市の呼び声が渡っていった。
夜、枕元のブレスレットを手に取って、私は少し迷った。
毎晩、眠る前に外してきたものだ。外して眠るのが、あたりまえだった。
今夜は、着けて眠ることにした。
留め具を、手首の内側で留める。兄様が何度も刻み直してくれた守りと、その奥のちいさな灯を、今夜は手首に置いたまま。隠すためでは、もうない。ただ、一緒にいるためだけに着けるのは、これが初めてだった。
薄水色の石に、指先で、ひとつ。
今日の分を、送る。水位のこと。氷の器のこと。市で、言葉がひとつこぼれたこと。載せられるはずもないのに、載せたつもりになって、送る。
届いたかどうかは、今夜も、分からないまま。
朝の光で、目が覚めた。
窓の外で、都の水が朝の色をしている。何日目かの、王宮の朝。いつもと同じ白い天井、いつもと同じ水明かり。
右手首で——石が、ひとつ、温もった。
指先でひとつぶんの、あの感触。強くも、弱くもない。海がどれだけ広くても船がどこまで遠くても、いつもの朝と同じ質の、いつもの温もりだった。
届いている。
こちらの分が届いたのかは、今日も分からない。でも、向こうの分は、いま確かに届いた。あの人は海の向こうの朝の中で、今日も、灯してくれた。
——また、朝に。
あの言葉の糸は、海を越えて、生きている。
私は右手首の石に、指先を置いた。今日の分を、返す。
朝が、ふたつ、同じ糸の上にあった。
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