第11話「また、朝に」間章
王宮の北の回廊は、夜が更けると、水明かりが天井まで届く。
テオドールは、灯りを持たずに歩いていた。この回廊の夜の明るさを、体が覚えている。九つの頃から、眠れない夜はいつもここを歩いた。
昼間の自分の声が、まだ耳の奥にある。
——アルフォンス・フェルドラクの身元を兄に伝えたのは、私だ。
言うべきことは、言った。順番も、間違えていない。予告をして、人を払って、正面から言った。彼女は、責めなかった。責められた方が、いくらか楽だったかもしれない。
執務室の兄は、書類から目を上げずに聞いた。
「明日から、彼女の稽古に付き合います」
「……そうか。止めはしない」
それだけだった。微笑の奥は、今夜も読めなかった。読めないことに慣れてしまっている自分に、回廊の途中で気づく。
彼女の朝の癖を、知っている。
右手首に指を置いて、それから、海の方を見る。毎朝、同じ順番で。あの手首に何があるのかを、確かめたことはない。確かめるまでもない。あの騒ぎの夜、水の上で何が起きたのか、報告をいちばん先に読んだのは私だ。
勝ち目の話では、ない。
それは、分かっている。水明かりの天井を見上げて、テオドールは、分かっているともう一度思う。あの二人のあいだにあるものは、海で薄まるような種類のものではなかった。
分かった上で、では籠の外から眺めているのか、という話だ。
丁寧な朝食と、白い部屋と、三歩後ろの案内。彼女が行儀のいい優しさの中で少しずつ色を薄くしていくのを、王宮の側の人間として黙って見ている——それは、できない。できないものは、できない。
だから、帰り道を作る。
帰った先に、私がいなくても。
期限なら、ある。
出立の前の日、旧図書室の長机に、氷の結晶をひとつ置いてきた。溶けない細工の、小さな氷。溶けないが、永くはもたない。——夏の盛りまでは、もつ。俺が戻る頃には、消える。あの日、そう言って渡した。
あれは、私があの部屋にいた時間の、形だ。
その形がまだ残っているうちに、言う。消えてしまった後では、終わった時間の話になる。夏は、もう遠くない。自分で切った期限に、いまになって背中を押されているのだから、世話がない。
言う、と決めている。
彼女が何かを選ぶ前に、一度だけ。返事が欲しいからではない。選ぶ日の彼女の手元に、伏せられた札が一枚でも残っているのは、公正ではないからだ。私のこれも、札の一枚である以上は。
回廊の突き当たりで、テオドールは足を止めた。水明かりが、夜の天井でゆっくりと形を変えていく。
まだ、言えないまま。
——だが、いつまでも、ではない。




