第11話「また、朝に」後半①
「夕方に、少し話がある」
テオ様からそう告げられたのは、朝の廊下でのことだった。それだけ言って、テオ様は公務の方へ歩いていった。予告をして、先に置いていく。そういう言い方をする人だったろうかと、私は半日、考えることになった。
考えの途中で、昼が来て——昼は昼で、思いもしない人を連れてきた。
「お客様がお見えです」
面会の間に通されて、扉が開いて、私は言葉をなくした。
緩く束ねた金茶の髪。水色の瞳。気軽に片手を挙げる、あの所作。
「よう。……元気そうで、何よりだ」
兄様、と言う声が、途中で裏返った。
ゼノ兄様が、王宮の白い間に、当たり前の顔で立っていた。
「な、なんで、ここに」
「仕事だよ。昨日の件の報告を上に納めに来た。ついでだ、ついで」
ついで、と言いながら、水色の瞳は一拍で私の全身を測り終えていた。顔色。立ち方。それから——手首。何も着けていない、私の右手首。
「……見せてみな」
何を、とは言われなかった。私は部屋から持ってきた鞄の内隠しから、ブレスレットを出して、兄様の手のひらに載せた。
兄様は、それを窓の光にかざした。鎖を指でたどって留め具を確かめて、石の面をひとつ、爪の先で軽く弾く。それだけだった。
「——壊さずに、解いたのか」
訊かれているのは、術式のことだ。あの夜、私は兄様の編んだ守りを、編み目をたどってほどいた。壊せば早かったけれど、石の奥の小さな灯ごと、失いたくなかった。
「うん」
「そうか」
長い検分は、ない。作った本人には、それで足りるらしかった。
それから兄様は、石をもう一度、光の奥まで透かした。水色の瞳が、少しだけ細くなる。
「……ひとつ、増えてるな。誰の火だ、これ」
答えるより先に、兄様は自分でうなずいた。
「——ああ。あの、麦畑まで来た坊やか」
それ以上は、何も訊かれなかった。石は、丁寧に私の手へ戻ってきた。
「あのね、兄様」
訊くなら、この人しかいなかった。
「開けたものが……戻らないの。高いままで。倒れたりはしないんだけど、戻し方が、分からなくて」
兄様は、顎を掻いた。
「俺は隠す方の専門でね。開けたもんの戻し方は、俺の領分じゃない」
「……そう、だよね」
「ただ——」
窓の外の水路へ、兄様は目をやった。
「お前、フェルンハイムの井戸端で母さんが毎朝どうしてたか、見てただろ」
「え?」
「あれは、水遊びじゃないぜ」
それだけだった。それだけ言って、兄様はもう、その話を畳んでしまった。井戸端の母様。桶と、朝の光と、水面に触れる指。覚えている。覚えているのに、それが何だったのかが、まだ形にならない。
「母さんはさ」
帰り支度をしながら、兄様はふいに言った。
「この国の水を、一度も『帰りたい』とは言わなかった。故郷の海だぜ? ……変だと思ったら、覚えとくといい。それだけだ」
「兄様、それ、どういう——」
「さあな」
扉の前で、兄様は振り返って、片手を挙げた。
「……よく帰ってきたな、底から」
それが、最後の一言だった。底、という言葉の意味を正しく知っているのは、母様と兄様だけだ。その人が、労いをひとつ置いて、来た時と同じ気軽さで帰っていった。どうして渡りをつけてくれたのか、今日も訊けずじまいだった。訊いても、きっと「暇だったんだろ」で終わりだった。
兄様は、意味のないことを、しない人だ。
夕方の水辺の回廊で、テオ様は待っていた。
本を、持っていなかった。あの人がいつも盾のように挟んでいる本が、今日はどこにもない。テオ様は付き添いの人に「外してくれ。……ここからは、私用だ」と告げて、回廊に二人だけになった。
隠れて言うのではなく、人払いを堂々と申し込む——そのやり方に、朝からの半日ぶんの予感が形になっていく。
「リアネ」
まっすぐに、名前が来た。
「アルフォンス・フェルドラクの身元を兄に伝えたのは、私だ」
前置きが、ない。
「あの朝、火の騒ぎの報告を聞いて、誰なのかは私にはすぐ分かった。兄に問われて、私は、フェルドラクの名を言った。——黙っていることも、できた」
迷いのない声だった。逃げ場を、用意していない目をしている。
「お前は、知っておくべきだと思った」
風が、回廊の水面を渡っていった。
責める言葉は、探しても、私の中に見つからない。あの言葉が、兄君の手札になった。それは本当だ。でも、この人は黙っていられたのに、言った。言わなくても、私は一生知らずにいられたのに。
「……どうして、話してくださったんですか」
「言っただろう」
テオ様は、少しだけ、いつものはぐらかす顔に戻った。戻って、でも、目はそらさなかった。
「お前は、自分の周りで何が動いたのか、知っておくべきだ。……それだけだ」
言い終えて、テオ様は歩き出した。歩き出して、三歩目で、思い出したように振り返った。
「——明日から、稽古に付き合う。水盤ひとつでは、相手がいないだろう」
「え……?」
「兄上には、もう話を通してある」
それだけ言って、今度こそ、テオ様は回廊の向こうへ歩いていった。人払いの終わった回廊に、夕方の水明かりだけが残った。
私の周りで、また何かが動きはじめている。今度は——動かしているのが誰なのか、分かる形で。
部屋に戻ると、窓の外はもう、水の色の夕暮れだった。
明日から、稽古に付き合う。あの声のまっすぐさが、耳の奥に残っている。
それから、ふいに、海の向こうの旧図書室の長机を思い出した。
いつもの椅子。いつもの本。寮の机の抽斗に置いてきた、小さな——
思い出しかけて、やめた。
海のこちらで動きはじめたものが何なのかは、考えないことにして、私は窓の水明かりを見ていた。




