第11話「また、朝に」前半③
帝国の都は、乾いた光の中にあった。
五日ぶりに踏んだ石畳は硬く、風は埃の匂いがして、どこまで歩いても水の音がしない。
生まれてからずっと吸ってきた空気のはずだった。その空気がいまは薄く感じられることに、アルフォンスは船を降りた日に気づいて、誰にも言わずにいる。
父の書斎に呼ばれたのは、帰着の翌日だった。
「名目なき渡航の始末は、家がつけた」
エルハルト・フェルドラクは、書き物の手を止めずに言った。叱責は、今度もなかった。
「ルミエール家との話は、まだ生きている。おまえが返事をせずに、放っておいただけだ。——月の終わりに、席を設ける。今度は、返事をしてもらう」
「……父上。その話は」
「おまえの意見は訊いていない。家の名目に穴を開けたのはおまえだ。次は、おまえが名目を果たす番だろう」
理屈は、通っている。通っているからこそ、どこにも手の掛かりがない。アルフォンスは、返事をしなかった。しないことだけが、いまの彼にできる唯一の返事だった。
月の終わりの席は、来る。それまでの日々も、来る。
その席は、思っていたより早く、形だけ先に来た。
週の半ば、母の茶会に、ルミエール公爵夫人が令嬢を伴って訪れる。廊下ですれ違っただけの、挨拶ひとつぶんの対面だった。
「ご無事のお戻り、何よりですわ」
カトリーヌ・ド・ルミエールは、完璧な微笑で頭を下げた。結い上げたプラチナブロンドに、星型の銀の髪飾りがひとつ、乾いた光を撥ねている。声の調子も、頭を下げる角度も、どこにも欠けたところがなかった。
その完璧さの内側を、アルフォンスは知らない。知らないまま、頭を下げ返した。
家格でいえば、あちらが正しい。公爵家の令嬢と、侯爵家の嫡男。誰が並べても釣り合いの取れた、正しい縁組。
正しさというものが、この都ではいちばん強い通貨だということを、アルフォンスは父の書斎で思い知ったばかりだった。
新年度の学院に、彼の席はまだあった。
「おい、生きてたかー!」
教室に入るなり、騒がしいのが飛んできた。セドリック・ヴァン・クロイツ。休みのあいだの噂を、こいつがどこまで聞いているのかは分からない。
「心配したんだからな、俺は。で——」
セドリックは声を落とさなかった。落とさないまま、まっすぐに訊いた。
「会えたのか」
「……ああ」
「よし! なら細かいことはいい。おかえり。タルト奢れよ、心配代」
それだけだった。それだけで、この教室に戻ってきたのだと、初めて思えた。
新年度最初の実技で、アルフォンスは的に向かった。
指先に、火を灯す。細く、まっすぐに。抑え込むのではなく、向きを保つだけの、あの朝に覚えた手綱で。火は乱れずに立って、的の中心へ走った。
「——いい火に、なりましたな」
低い声がする。振り返ると、ヴァルター先生が丸い銀縁眼鏡の奥の温和な目で、彼の指先を見ていた。
一年生の頃から数えて、この老教師がアルフォンスの火に言葉をかけたのは、初めてだった。焦げた袖口を黙って見ていた、あの日と同じ目だ。先生は一度だけうなずいて、次の生徒の方へ歩いていった。
それ以上は、何も言わない。それ以上は、何もいらなかった。
放課の前に、学院長室へ呼ばれた。
無断の渡航に対する学院の処分は、始末書と、新年度が始まるまでの謹慎——それで済んでいた。家の名が動いたのだろうと、誰も言わなかったが、分かる。今日は、その始末書の最後の確認だった。マルガレーテ・ヘルムシュタット学院長は書類を揃え終えると、灰青の瞳を上げて、付け足すように言った。
「フェルシーアさんの籍は、残します」
アルフォンスは、顔を上げる。
「休学の扱いです。期限は、設けません」
「……理由を、伺っても」
「わたしが、そう決めた。それだけです」
それ以上、学院長は何も語らなかった。語らないまま、下がってよい、と目で示す。
廊下に出ると、西日が乾いた光の帯を床に落としていた。
新しい年度の教室に、空いたままの席がひとつ、残される。
あの子の故郷は、この国の麦畑の村にある。母君も家も、学院の席も——帰る場所は、ぜんぶこちら側にある。それなのに、本人だけが海の向こうにいる。
戻ってこないのでは、ない。戻れない形で、いる。
帰り道が優しい言葉でふさがれるのを、あの朝の水辺で見てきたのは俺だ。
だから、席が残ることには意味があった。
帰り道がまたつながった日に、帰り着く場所が、ここで待っている。この乾いた都で、それが今日いちばんの報せだった。
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