第11話「また、朝に」前半②
王宮の朝は、三日で形になった。
朝の光が白い石の壁を伝って下りてくる頃、扉が控えめに叩かれて、女官の人が湯と着替えを運んでくる。朝食は水辺の間で、果物は毎朝違う種類で、どれも美しく切ってある。廊下はどこまでも歩いていいし、庭も水辺も自由だと言われている。ただ、歩き出すと必ず、三歩後ろに案内の人が付く。道に迷わないように、と。
迷いたい、と思ったことは、まだ言えていない。
扉に鍵は、かかっていない。かかっていないことを、確かめた夜が二度ある。開けると、廊下の灯の下で夜番の人が丁寧に頭を下げる。私は水を少し、とだけ言って、部屋に戻った。
何もかも、優しい。優しくて、どこにも、断り方が付いていない。
宿の荷物は、二日目のうちに部屋へ届いていた。
鞄の中は、誰かの手で綺麗に畳み直されていた。悪意は、たぶんどこにもない。
旅の埃を払ってくれただけ。それでも、畳み直された自分の服を見た時、初めてこの部屋の白さが少しだけ冷たく見えた。
鞄のいちばん奥で、母様の小瓶は、無事だった。
井戸の水は、澄んだまま、小さく光を返してくる。誰かの手が触れた気配は、これにはなかった。触れなかったのか、触れられなかったのかは、分からない。私はそれを、枕元のブレスレットの隣に置いた。この部屋で、私のものと言える場所が、そこだけ少しずつ増えていく。
稽古の間、と呼ばれる小さな部屋を、もらっている。
水盤が、ひとつ。それだけの部屋だ。それだけで、いい。
朝の稽古は、静かに始まる。息を整えて、指先で水面に触れる。糸は、立つ。呼べば、来る。来る——来すぎる。指先ひとつの糸のつもりが、水盤の水の半分が応じて立ち上がってくる。遠くの水路の水まで、こちらへ耳を澄ませている気配がする。
上がったままの水位は、三日経っても、下がらなかった。
倒れそうには、ならない。眩暈もない。ただ、高い。
私の中の水面がずっと高いところにあって、世界じゅうの水が、近い。戻そうとして、息で押さえてみる。押さえた分だけ、水は行き場をなくして、私の中で所在なげにする。押し戻すのは、違うのだ。それだけは分かる。分かるのに、ではどうすればいいのかが、分からない。
開け方は、体が知っていた。
戻し方は、誰も教えてくれない。
「稽古は、進んでいますか」
朝食の席で、ヴィルフリート様がそう訊いた日があった。責める調子は、どこにもない。
本当に、ただの気遣いの声だった。
「……少しずつ」
「それは、良かった。入り用のものがあれば、何なりと」
何なりと、の中に「帰りたい」は入っているのだろうか。試したことは、まだない。試して、どんな優しい形で断られるのかを、聞くのが怖いのかもしれなかった。
朝の終わりに、挨拶を送る。
枕元のブレスレットを、手のひらに載せる。薄水色の石に、指先で、ひとつ。海の向こうへ。船は、まだ海の上のはずだ。波の音の中で、あの胸の奥に、届いているだろうか。
届いたかどうかは、確かめようがない。
糸のこちら側にあるのは、送った、という確かさだけ。向こう側のことは何ひとつ分からないまま、朝が来るたび、私は指先を石に置く。
こちら側の確かさだけを、持って。
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