第11話「また、朝に」前半①
夜の海は、どの方角を見ても同じ色をしていた。
都の灯は、もう見えない。夕方までは水平線の際にひと粒残っていた明かりが、日が落ちきる頃には、夜と海の境に紛れて見えなくなった。
甲板の風は、乾いていた。行きの船で慣れた、あの水の匂いのする風ではない。帝国へ向かう風だ。一晩ごとに、あの都が遠くなる。
海は、五日。
行きの五日は、短かった。同じ空の下へ近づいていく五日だったからだ。帰りの五日が同じ長さだとは、アルフォンスにはとても思えなかった。
「アル様。夜は冷えます」
ハンスが、外套を持って甲板に上がってきた。受け取ると、彼は少し離れた手すりの際に立って、それきり何も言わなかった。言わないまま、主人より先に船室へ戻ろうとはしない。この従者は、船に乗ってからずっと、そうしている。
革手袋の下で、核が、いつもの息をしている。
小さく、確かに。今朝、朝の光の中で届いたあの挨拶の感触が、まだ胸の奥に残っていた。
いまここにあるのは、もっと単純なことだった。
灯が、ある。
海の向こうに、あの子がいる。それをこの体は、目でも耳でもなく、胸の奥の火で知っている。
十三年、憎んできた火だった。
生まれつき、荒れる火。母を遠ざけ、人を遠ざけ、教室の周りから足音を消してきた火。殺せと教わり、殺して、殺しきれずに——それでも殺し続けてきた十三年だった。この火さえなければ、と思わなかった日を、数えるほうが早い。
その火が、いま、海の上で灯っている。
この火がなければ、と、アルフォンスは夜の海を見ながら思った。この火がなければ、あの契約はない。
核を預けることも、ない。毎朝の挨拶も海を越えるこの細い糸も、何ひとつ、ない。
憎んできたものに向かって、憎しみではない何かが、初めて動いた。
それが何なのか、名前を付けるのは、やめておいた。付ければ、まだ嘘が混ざる。十三年は、そんなに軽くない。ただ今夜のこの一度だけ、胸の奥の火を、疎ましいと思わずに眺めていられた。それだけで、十分だった。
言いたいことが、あった。
明日の朝も灯す。着いても灯す。返事は、いらない。
——言葉にすれば、それだけのことだ。喉まで、来ていた。
火に声を込める術を、アルフォンスは知っている。使ったことも、一度だけ、ある。
核を強く鳴らせば、この声は、海の向こうのあの石まで届くのかもしれない。
やめた。
この距離で核を強く鳴らして、あの手首の守りが、もつのかどうか。分からない。分からないことを、あの腕の上で確かめるわけには、いかなかった。
だから、灯すだけにする。
声は、ここに置いていく。言いたいことは、会える日まで、俺が持って歩く。
糸に載せるのは、灯ひとつでいい。
——また、朝に。
そう言ったのは、俺だ。なら、朝ごとに、届けるものがある。
アルフォンスは、革手袋の上から胸に手を当てて、目をつぶった。夜の海の上で、指先ひとつぶんの灯を、海の向こうへ向ける。
俺は、今日の分を灯した。
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