第10話「名づけの、音」後半②
船の鐘が、鳴った。
刻限だった。水の編み目の向こうで、使いの人が、申し訳なさそうに頭を下げる。編み目は、いつまでも保てるものではなかった。保てたとしても——次の便では、別の人たちが来る。手続きは、消えない。私が止めたのは、腕ではなくて、時間だけだった。
その時間で言うべきだった言葉は、まだ、私の中で形になっていない。
私は、長く息を吐いた。
吐いた息の終わりと一緒に、水の糸が、一本ずつほどけていく。編んだ時と同じ速さで、同じ静けさで。ほどけた水は細い帯になって、船着きの水面へ、順番に帰っていく。
最後の一本が水に消える前に、アルフォンス様が編み目のあった場所を越えて、私の前に立った。
何も、言わなかった。言えなかったぶんの言葉は、もう朝のうちに、ぜんぶ渡されている。
代わりに、その人は、革手袋の右手を胸に当てる。
「——また、朝に」
それだけ、言った。
「……はい」
返事は、それしか出なかった。あの言葉への返事は、まだ言えない。言えないのに、挨拶の約束にだけは、はいが言えた。言えてしまうことが、悲しいのか嬉しいのか、分からなかった。
アルフォンス様は、船へ歩いた。連れられて行く背中では、ない。自分の足で歩く背中だった。ハンスさんが、一度だけ丁寧に私に頭を下げて、その後ろに続いた。
船が、離れていく。
朝の水路を白い航跡がまっすぐに伸びて、橋の下をくぐって、見えなくなった。
水は、すぐには帰らなかった。
船が見えなくなっても、都の水は、まだ私の方を向いていた。水路の水も舟の下の水も、静まったまま、私を見ている。もう、いいの。心の中でそうたのんでも、水は、少しのあいだ動かなかった。
上がった水位が、下がらない。
私の中の、いちばん深いところ。開いたものが、開いたままになっている。倒れそうでは、なかった。眩暈もない。ただ——戻せない。戻し方を、私はまだ知らない。開け方だけを知っていて戻し方を知らないのだと、開けてから、初めて分かった。
初めて、自分の底が、少しだけ怖かった。
「——お見事だったわ」
振り返ると、セリーヌさんが立っていた。
市の方から戻ってきたのか、いつもの佇まいで、船の消えた水路の先を見ている。それから、私を見た。
「記録には、こう書くことになるわ」
その人は、稽古の日と同じ、揺るぎのない声で言った。
「——深海の魔女の娘が、檻を、解いた」
音が、体に落ちてきた。
深海の魔女。母様の、遠い呼び名。その娘。檻。私が今日この手でしたことが、知らない言葉に組み替えられて、一行になっていく。私の名前は、どこにもない。リアネ、という音は、その一行のどこにもいなかった。
「それが、あなたの書いた頁に付く、最初の名前よ」
セリーヌさんは、それだけ言って、歩き出した。引き止める言葉も、訊きたいことも、今度は喉まで上がってこなかった。ただ、一行の音だけが、体の中で鳴り続けている。
王宮の舟は、言葉のとおり、待っていた。
「王宮へ——参ります」
ヴィルフリート様は、微笑んで、何も訊かなかった。訊かないことの意味を、私はもう、考えないことにした。舟が石段を離れる時、テオ様が半歩だけこちらに動いて——止まる。止まったことだけを、見ていた。
知らない天井で、朝が来た。
王宮の、白い石の部屋。窓の外の水は、宿の窓から見えた水と同じ都の水のはずなのに、知らない色をしていた。
枕元に、石を置いて眠った。
手のひらに載せると、石は、いつもの手ざわりで私の指を待っていた。
指先で、ひとつ。
いつもの朝を、込める。海の向こうの、あの胸の奥まで。届くかどうかは、分からない。海がどれだけ広いのか、この糸がどこまで細くなれるのか、私はまだ知らない。
あの言葉への返事は、今日もまだ、言えない。
挨拶だけが、言える。
だから私は、今日の分を、送った。
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