第10話「名づけの、音」後半①
水辺に戻ると、舟が増えていた。
帝国風の旅装の人たちが、船着きに並んでいる。アルフォンス様は、石段の上に立っていた。立って、促されていた。使いの人の手が、彼の背中の方へ丁寧に差し出されている。触れない手だった。触れないまま、方向だけを示す手。
「船が参ります。若様、お時間です」
ハンスさんが、荷を持たないまま、半歩後ろに従っている。
行って、しまう。
考えるより先に、足が石畳を蹴っていた。
アルフォンス様が、こちらに気づいた。何かを言おうとして、言葉の見つからない顔になる。今朝、ぜんぶ言ってしまった人の顔だった。
私も、言葉が見つからない。返事は、まだ私の中で形になっていない。形にならないまま、この人は船に乗る。前からは王宮の手、後ろからは帝国の手。どちらの手にも、悪意はひとつもない。悪意がないまま、私たちは引き離されていく。
——ここから先は、あなたが書くのよ。
朝の光の中で、あの声が、もう一度聞こえた気がした。
書く。私の水の続きを。記録の、どこにもない頁を。導いたのはあの人でも——書くと決めたのは、私だ。
私は右手首の石に、指先でひとつ、触れた。
いつもの、朝の挨拶の形。海の向こうへ届けてきた挨拶を、今日は、目の前の人へ。それから、もうひとつの意味を、指先に込めた。
行ってくる。
眼鏡には、触れない。母様がくれたこれは、このままでいい。今日外すのは、隠すための方だけだ。
留め具に、指が掛かる。
外れた。
するり、と。毎晩、眠る前に外すのと、同じ手つきで。同じ手つきなのに、今日のこれは、ぜんぶ違った。
薄水色の石が、鎖ごと手のひらに落ちてくる。兄様が何度も刻み直してくれた、手作りの守り。その冷たい石のいちばん奥に、ひと粒だけ、温かいものがいる。アルフォンス様の火の核。毎朝の挨拶が、海を越えて通ってきた小さな灯。
兄様の守りとこの人の火を、両方まとめて、私は握り込んだ。
世界の音が、変わった。
底が、上がってくる。
私の中の、いちばん深いところ。ずっと隠されてきた水位が、朝の光の方へ、静かに上がってくる。怖くは、なかった。怖くないことが、いちばん、新しかった。
そして——都の水が、一斉に、こちらを向いた。
水路の水が。舟の下の水が。遠くの大環を巡る水が。店先の水瓶の、汲み置きの水まで。ぜんぶが、いっぺんに、私を見た。
派手なことは、何も起こらなかった。水は騒がない。跳ねない。ただ、静まっていく。都じゅうの水が私の方を向いて、深く、静まっていく。櫂の音が消えた。舟が停まる。市の声が、遠くで途切れる。
静まった水の上で、私は、息を整えた。
糸は、息で決まる。
吸って、止めて、長く吐く。吐いた息の形のとおりに、船着きの水が、動きはじめた。
細い水の糸が、一本、立ちのぼる。二本。三本。数えきれなくなる。水の糸は互いに絡んで結ばれて、アルフォンス様と使いの人たちのあいだに、ゆっくりと編み上がっていった。
壁では、なかった。水の編み目が、朝の光を透かしている。向こう側の顔が見える。声も届く。それなのに、誰の手も、もう向こうへは届かない。
名前は、付けなかった。これが何なのか、私も知らない。ただ、編み方だけを、体が知っている。誰に教わったのでもない手つきで、私の息は、水を編んでいく。
使いの人が、一歩、退いた。
誰も、何も言わなかった。
先に、手のひらの中が温もった。握った石の奥で、火の核が、ふわりと目を覚ます。
それから——編み目の内側で、火が、立ち上がった。
編み目の内側——アルフォンス様の指先に、細い火がひとつ、灯っている。乱れていない。暴れていない。まっすぐに立ったまま、炎の先だけが、ゆっくりと私の方を向いた。
「——俺の火が、応えている」
掠れたままの声だった。その人は自分の指先を見て、それから、編み目ごしに私を見た。
「お前の水に。……初めてだ、こんなのは」
水の編み目と、その中の火。引き離そうとする手続きのまんなかで、私の水とこの人の火だけが、同じ拍で立っていた。
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