第10話「名づけの、音」間章
封蝋には、家の紋が押されていた。
見慣れた、盾の紋。アルフォンスは水辺の石段に腰を下ろしたまま、その封を切った。指はまだ強張っていて、封蝋のひとかけが、朝の水路に落ちた。
文は、短かった。
名目なき渡航の件、聞き及んでいる。家の名において、即刻帰国せよ。迎えは立てた。手配はすべて、済んでいる。
それだけだった。叱責の言葉は、ひとつもない。問いも、ひとつもない。おまえの言い分を聞く、という一行が、どこにもない。それがいちばん、父らしかった。
「若様」
旅装の使いが、頭を下げたまま言った。
「船は、本日の午の便にございます。それまでに、お支度を」
「——戻らない」
アルフォンスは、言った。
立ち尽くさない。文を畳んで、使いの目を見て、はっきりと言った。今朝あれだけ流れてしまってから、言うべきことを言わずにおく器用さは、もう残っていない。
「戻らない。俺には、この都でまだ、済んでいないことがある」
使いは、頭を下げたまま、少しも動かなかった。
「……では、そのように本国へお伝えいたします。ですが若様、ひとつだけ。次の便では、私ではない者たちが参ります。それと——」
使いは、そこで初めて顔を上げた。困っている顔だった。責めるのでも脅すのでもない、ただ手順を知っている者の、困った顔だ。
「王宮のご了承は、既にいただいております。御身の帰国について、この国に、お引き止めの意思はございません」
戻らない、を通す方法を、アルフォンスはひとつずつ数えた。
名目はない。ここに立つ足場が、そもそもない。王宮と本国のあいだで、手続きはもう噛み合って、回りはじめている。その歯車のどこにも、彼の「戻らない」を受け取る窓口が、ない。
力ずくで、という道だけが残った。数えて、すぐに捨てた。この手で暴れれば、どうなるか。昨夜の白い水面が、答えをもう出している。あの子が息で取り戻した朝を、二度壊すことは、できない。
抗った。そして、負けた。
ハンスは、何も言わない。言わないまま、荷をまとめはじめも、しない。使いの視線が荷物へ動いても、気づかない顔で、ただ主人の半歩後ろに立っていた。それが彼なりの抗いなのだと、アルフォンスには分かった。
その時だった。
胸の奥の火の核に、指先でひとつ触れるような、あの感触が届く。
朝の挨拶だった。
静かで、確かだった。
十三年、やり方はひとつだけだった。感情を、殺す。腹が立っても、嬉しくても、心が動けば火は暴れる。だから、動かさない。殺気を殺し、顔を殺し、声を殺す。そうやって、火を抑えてきたのだ。
昨夜、それが、できなかった。心は動いて、あふれて、火は一晩じゅう止まらなかった。十三年のやり方は、あの水の上で、使いものにならなくなっている。
なら、いまごろ、胸の火は暴れ放題のはずだ。抑え方は、もうどこにもない。
なのに——荒れていない。
殺していないのに、荒れていない。
どうしてなのか、言葉にしかけて、やめた。いま言葉にすれば、まだ嘘になる気がした。十三年ぶんの恥に似た何かと、生まれたばかりでまだ名前のない何かが、胸の中に半分ずつあった。
分かっているのは、ひとつだけだ。
この朝の中でいちばん確かなものは、父の文でも二国の手続きでもなく——いま届いた、指先ひとつぶんの挨拶だった。
朝の光が、水路の奥まで届きはじめている。
市の声は、もういつもの大きさに戻っていた。都は何ごともなかった顔で、今日という日を始めている。
その朝の中で、帰る刻限だけが、彼の手の届かないところで決まっていった。
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