第10話「名づけの、音」前半②
宿へ戻る道は、ひとりだった。
アルフォンス様のそばには、ハンスさんと、あの文が残った。私のそばには、考える時間だけが残された。朝の水路は何ごともなかった顔で、荷舟と市の声と、いつもの巡りを取り戻している。
その水路の際に、その人は立っていた。
「——無事で、良かったわ」
セリーヌさんだった。
いつもの佇まいで、いつもの声で、朝の光の中に立っている。琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見た。
足が、止まった。訊きたいことがいちどきに喉まで上がってきて、押し合って、どれも言葉にならなかった。どうして、置いていったんですか。どうして、あの間を知っていたんですか。あなたは——あなたは、何をしに来た人なんですか。
言えずにいる私の前で、セリーヌさんは、すっと右手を上げた。
指先に、水が生まれた。
呼び水の鈴も、水盤もない、朝の空気の中で。細い水の糸が指先から立ちのぼって、ゆったりと形を変えていく。そして——温度が、来た。
夜の藍の、あの温度だった。
隠されて、いない。初めて、正面から来ていた。
最初に知ったのは、声だった。まだ顔も知らない夜、寮の廊下ごしに聞いた「アクアニアから参りました」の声。あの声の温度は、夜の藍色になって、私の中に残った。
次に知ったのは、水だった。稽古の水盤で、セリーヌさんの糸が見せた水。澄んで、冷たくて、応えない水。その水の奥に、同じ藍が、ひとすじ滲んでいた。
気配でも、知っていた。優しい言葉の下を、ときどき、あの色がひと筋流れていくのを。「特別」と言う声の中に。視線の奥に。北廊下の、誰もいないはずの曲がり角の向こうに。共鳴系の私の肌だけがそのたびに拾って、そのたびに、気のせいにしてきた。
そして——あの夜。母の水の間の、止まった水の中に、ひとすじだけ残っていた藍。
ぜんぶ、同じ温度だった。ぜんぶ、この人の色だった。
ほんとうは、薄々分かっていた。あの水の中に藍を見た時から、ずっと。分からないふりが、できていただけだ。正面から来たこの温度が、そのふりを終わらせた。
あの止まった水の中に、この人の温度が残っていたということは——この人は私より先にあの間へ下りて、あの水に触れていたということだ。あの水がどういう水なのか、知っていたということだ。呼んでいない者にも、来る水。招き返せない者を、包んでしまう水。それを知っていて、この人は、記録の頁で私をあそこまで導いた。
導いた人と、待っていた水。そして私があの水の中にいたあいだ、この人は灯を置いて、いなくなっていた。
つながってしまった。つながって、しまってから——
「これは、私の力よ」
セリーヌさんは、言った。
「もう、隠さないことにしたの」
「中央魔導院、第三席。古代水術式の研究者。……ここまでは、あなたも知っていたわね」
水の糸を指先に遊ばせたまま、セリーヌさんは続けた。
「母の水の間は、本物よ。記録も、ぜんぶ本物。わたくしはあなたを、本物の場所へ、本物の記録で導いた。——言わなかったことは、たくさんあるわ。でも、嘘は、ひとつも言っていないの」
思い返す。記録の府の日々。文の水封。エレナ、の三文字。大潮の夜。どうぞ、と半歩退いた灯。
ひとつずつ数えても、嘘は、見つからなかった。見つからないことが、いちばん、怖かった。
「……あの間に、先に行ったことが、あるんですね」
あの夜からずっと、胸の奥に落ちたままだった種を、私はやっと言葉にした。
「ええ。あるわ」
セリーヌさんは、隠さなかった。
「どうして、私を置いていったんですか」
「——確認しに、来たの」
答えは、まっすぐに来た。まっすぐなのに、答えの形をしていなかった。
「あの方の水が、あなたの中でほんとうに生きているのか。記録の続きが、書かれるのか。わたくしは、それを確認しに来たの」
「それだけ、ですか」
「それより奥は、まだ言えないわ」
その瞳は、動かなかった。
「……言えないことと、嘘は、違うのよ」
風が、水路の水面を渡っていった。
セリーヌさんは指先の水をほどいて、数滴を、水路へ落とす。それから、いつもの稽古の時と同じ声で言った。
「今朝のあなたを、聞いたわ。息で、火の隣に立ったのですってね」
見られていたのは、王宮にだけでは、なかった。
「リアネさん。あなたの水の続きは、記録の中には、もうないの」
その人は、私の目を見た。
「ここから先は——あなたが、書くのよ」
答えを待たずに、セリーヌさんは歩き出した。朝の光の中を、来た時と同じ足取りで、市の方へ。
言えないことと、嘘は、違う。
その言葉が、もらった言葉の中でいちばん正直で——いちばん、答えから遠かった。
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