第10話「名づけの、音」前半①
舟は、音を立てずに着いた。
白い石の舟着きに寄せる最後のひと棹まで、水音がほとんどしなかった。舟べりには、読めない文字の刻みが一列に走っている。彫りは磨り減るほど浅くなって、それでも手入れの光を留めていた。長く使われてきた、格のある舟なのだと、刻みの浅さの方が教えてくる。
私は、アルフォンス様の手を離して、立ち上がった。
離した手のひらが、朝の空気で急に冷えた。
降りてきたのは、背の高い人だった。
氷青の銀の髪が、朝の光を受けている。テオ様と、同じ色。でも所作はテオ様よりずっと柔らかくて、石段を上がる足取りに、音がなかった。
その半歩後ろに——テオ様が、いる。
「——昨夜は、大変でしたね」
最初の言葉は、労いだった。
「ヴィルフリートと申します」
名乗って、その人は少しだけ首を傾け、テオ様の方をひと目見た。
「弟が、学院で世話になったそうですね」
声は、穏やかだった。目は、優しい。優しいまま——何も、読めなかった。テオ様の読めなさなら、知っている。言えないことを抱えた人の、言えなさの形。この方のは、違う。優しさの奥に、何があるのかがまるで見えない。見えないことにすら、気づかせない優しさだった。
「リアネ・フェルシーアさん、ですね」
名前を、知られている。
聞き返す間もなく、その人は続けた。どの言葉も急がず、押さず、春の水のような速さで来た。
「昨夜のことは、聞いています。水の上の、火の騒ぎのことも——それを鎮めたのが、あなただということも」
見られて、いた。誰も近づかなかったあの白の中を、歩いたところから。膝をついて、息を合わせたところまで、ぜんぶ。
「……ですが、これだけの騒ぎです。あなたの身のまわりが騒がしくなるのは、時間の問題でしょう」
「王宮へ、お迎えしたい。王家の賓客として——保護、いたします」
保護。
その言葉は、優しい形をしていた。脅しはどこにもなく、どの言い回しも、私のためを思う形をしていた。ただ——形のどこを探しても、断り方が付いていない。
「アル様」
ハンスさんの声が、後ろで低くなったのは、その時だった。
振り返ると、橋の方から人がひとり、下りてくるところが見える。帝国風の、旅装の男の人。ハンスさんに歩み寄って、何も言わずに、一通の文を差し出す。
前からは、王宮の声。後ろからは、帝国の封。同じ朝の同じ水辺に、二つの手が、同時に届いていた。
ヴィルフリート様は、それを追い払いもせず、急ぎもしなかった。
目だけを一度橋の方へやって、それから私の後ろの——石畳に膝をついたままのアルフォンス様の上で、労りの形をした。
「フェルドラクのご子息、ですね。——弟が、見知った顔だと申すものですから」
テオ様は、何も言わなかった。言わないまま、目だけが一度、アルフォンス様の上を通った。
「御身について、この国から申し上げることは、何もございません。帝国のご名家のご子息を、わたくしどもがどうこうできる道理も、ありませんので。……ちょうど、お迎えもいらしたようですし」
封を見たハンスさんの顔色が、変わった。
変わって、すぐ、いつもの顔に戻る。戻り方の速さの方が、怖かった。
アルフォンス様は、石畳に膝をついたまま、その文を見ている。受け取る前から、差出人が分かっている人の目だった。
「……少し、考えさせてください」
言ってから、気づいた。その声を、私がどちらへ向けたのか、自分でも分からなかったことに。
「ええ、どうぞ。舟は、待たせておきますから」
微笑みまで、優しかった。待たせておきます、という言葉が今日じゅうという意味であることだけが、優しさの下から伝わってきた。
テオ様は、兄君の半歩後ろに、立っている。
一度だけ、目が合った。何も、言わなかった。言えないことのある人の顔なら、私はもう知っている。あの夜の灯の下の横顔が、朝の光の中で、同じ形のまま立っていた。
朝日はもう、水路いっぱいに満ちている。
湯気の名残はどこにもなくて、水面は何ごともなかった顔で、朝の光を返していた。遠くの水際から、市の声が戻りはじめている。荷箱の音。呼び水の鈴。知らない言葉の、いつもの朝のざわめき。
都は、どんどん明るくなっていく。
明るくなっていく朝の中で、私たちの時間だけが、狭くなっていった。
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