第9話「呼吸を合わせて」後半②
熱の壁が、消えていた。
今度は、誰にも止められなかった。私は立ち上がって、湯気の名残の中を、水辺まで歩いた。石畳に膝をついたその人の前に、同じように、膝をつく。
煤と、汗と、夜通しの消耗。間近で見る顔はひどい有様で——それでも、あの人だった。毎朝、手首の石の奥へ挨拶をくれていた人。十三の灯の放課後を、整えてくれた人。
「アルフォンス様——」
「……好きだ」
先に、こぼれた。
挨拶より先に。説明より先に。私の名前より、先に。
言ってしまってから、アルフォンス様は、自分の口を初めて見る人みたいな顔をした。押さえようとしたのが、分かった。押さえるより先に、次が来た。
「好きだ。……ずっと、言えなかった。言わないと、決めていた。決めていたのに——駄目だ、止まらない」
声は、掠れきっている。一晩じゅう火を注ぎ続けた人の空っぽの体から、今度は言葉が、注ぎはじめていた。
「お前の船の、三日あとの船で来た。海の上は、五日だ。着いてから、市を三日歩いた。宿は、三軒で断られた。名乗れない身の上だから、当たり前だ。当たり前だと分かっていて、それでも——この都のどこかにいると思ったら、探すのを、やめられなかった」
訊いて、いない。
何ひとつ訊いていないのに、言えなかったぶんが、ぜんぶ順番に流れ出してくる。私は口を挟むことも目をそらすこともできないまま、ただ、その決壊の前に膝をついていた。
「いつからか、言う。……入学式の日だ」
息が、止まった。
「十二の春の、あの石畳だ。お前は、目を伏せて、息まで止めて——いなくなろうと、していた。人の群れのまんなかで、ひとりだけ、消える練習をしている子がいた。俺は、それを、見ていた。式のあいだじゅう、ずっと」
去年の春。私が、いちばん上手に消えていたはずの日。
あの日の私を、見ていた人が、いた。
「……なぜ、とは、訊かないでくれ」
アルフォンス様は、そこだけ、静かに言った。
「まだ、言えない。ただ——いつから、だけは、ごまかしたくなかった」
「それから」
まだ、続いた。
「三日前の夕方、橋の上から、三階建ての石の宿を見た。細い水路の先の、窓に灯の入りはじめた宿だ。なんでもない水辺だと思って、通り過ぎた」
「……それ」
自分の声が、変な形で出た。
「それ、私の宿です」
アルフォンス様の顔が、止まる。
半歩後ろで、ハンスさんが、静かに目をそらした。何かをずっと前から知っていた人の、そらし方だった。
「……そうか」
長い、長い息が続く。
「通り過ぎたのか、俺は」
笑おうとして、失敗した顔が、そこにあった。私も、たぶん、同じ顔をしていた。三日前の夕方、私はあの宿の部屋で、母様の記録の頁を思い返していた。窓の下の水辺を、この人が通ったことも知らずに。
「……もうひとつ、言っておく」
声が、少しだけ、あらたまった。
「俺は、正規の道では渡れない身の上だ。名目のない嫡男に、船も通行証も出ない。——渡りをつけてくれたのは、お前の兄上だ」
「……兄様、が?」
「ゼノ・フェルシーア殿の名で、文が届いた。港と、船と、夜明けの刻限だけが書いてあった。なぜ動いてくださったのかは——分からないままだ。訊ける筋でも、ない」
兄様。夏の麦畑の、水路の見回りから土まみれで帰ってくる、あの兄様が。私の知らないところで、この人の海を、開けてくれていた。
兄様の考えることは、昔から分からない。分からないけれど——兄様は、意味のないことを、しない人だ。
それきり、言葉は、終わった。
言い終えたアルフォンス様は、出しきったものを仕舞おうとするように、一度口を結んだ。結んで——仕舞う場所がもうどこにもないのだと気づいた顔で、ただ、私を見た。
答えを、探した。
胸の中を、隅から隅まで探す。見つからなかった。何かが確かにあるのに、それを掬い上げる言葉が、ひとつも見つからない。見つからないまま、私は口を開いて——何も言えずに、俯いた。
「……すまない。返事が、ほしくて言ったんじゃない」
嘘だ、と思った。それも、言えなかった。
言葉は、どれも駄目だった。駄目なのに——手が、勝手に動く。
触りたい、が、言葉より先に来ている。目の前の、煤だらけの顔。夜通し開いたままだった、あの右手。ひどい有様のぜんぶに触って、確かめたかった。ここにいるのだと。もう、火を注いでいないのだと。
私は手を伸ばして——アルフォンス様の右手に、両手で、触れた。
革手袋越しにも、温度が伝わってくる。毎朝、手首の石の奥から届いていた、あの温度だ。海を越えても変わらずに届いた温度が、いま、手袋一枚の向こうにある。
アルフォンス様が、息を止めたのが分かった。何も言わなかった。手を、引きもしなかった。
言葉は、まだひとつも出てこない。出てこないまま、私はその手を包んでいた。手当てなのだと、自分に言い聞かせながら。手当てだけでは、ない気もしながら。
水路の水面が、水の色から、金色に変わりはじめていた。
朝日が、屋根の向こうから差して、湯気の名残をひと筋ずつ金に染めていく。どこかで呼び水の鈴が鳴って、舟がゆっくりと動き出した。騒ぎの夜が明けて、都は、いつもの朝の音を取り戻しはじめている。
その朝の光の中で、私はまだ、ひとことも返せずにいた。
「——アル様」
ハンスさんの声が、低く、短くなった。
遠くの橋の上に、揃いの装いの一団が現れていた。夜のあいだの遠巻きの灯とは、違う。動きの揃った、まっすぐにこちらを見る一団だった。その下の水路を、舟が一艘、朝の水を割ってこちらへ向かってくる。
朝が、来ていた。
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