第9話「呼吸を合わせて」後半①
角を曲がった瞬間、熱が、来た。
空気ではなく、壁に触れたのだと思った。頬と、額と、灯を持つ手の甲。夜明け前の冷えた体に、その熱は、痛みに近い形で当たった。
白い湯気の奥に、水辺があった。
石畳の水辺。引き潮で段の増えた石段。そして、その上に——人が、立っていた。
開いた右手を、水面へ向けて。その指のあいだから、芯の黒い赤い火が、太い帯になって水面へ注ぎ続けている。火の帯の根元で、湯気越しに、見覚えのある形の背中が揺れていた。
(……アルフォンス様?)
見間違いだと、思った。あの人は、海の向こうの帝国にいる。遠い学院の朝から、毎朝、挨拶をくれていた人だ。ここにいるはずが、ない。
でも、見間違えるはずも、なかった。教室の窓際の、いつもの席の背中だ。
「アルフォンス様!」
声より先に、足が出ていた。
「なりません——!」
腕が、前をふさいだ。
見上げると、見覚えのある顔があった。ハンスさん。アルフォンス様の、あの物静かな従者の人。その人が、煤で汚れた顔のまま、私の前に立っていた。
「それ以上は、なりません。近づけば、燃えます」
言ってから、ハンスさんは、私の顔をもう一度見た。
「……リアネ様。お探し、申し上げておりました」
数日、という言葉は使わなかった。使わなくても、その声の掠れ方が、費やした時間を教えている。
足がふらついて、ハンスさんの腕が、今度は支える形に変わった。支えられながら、私は、湯気の奥を見た。
火の帯は、途切れない。アルフォンス様は、こちらに気づいている。気づいて、顔だけをこちらへ向けて——それでも右手は水面へ向けたまま、動かせずにいた。
何かを、言おうとして、やめた顔だった。
近づけない。声も、この轟きの中では届かない。
でも——足元に、水がある。
石畳の際まで、引き潮の水路の水が来ている。その水面は、あの火を受けている水面と、切れ目なく続いている。都の水はぜんぶ巡って、ひとつに繋がっているのだと、この都が教えてくれた。なら、この足元の水は、あの火のすぐ隣にいる水だ。
私は、膝をついた。
灯を石畳に置いて、水際に、指先を近づける。触れる、その手前で止めた。触れなくても、いい気がした。
よく見て。よく聞いて。
母様の言葉は、この国の水のためだと、ずっと思っていた。……水のためだけでは、なかったのだ。
だから、見た。火の帯が、脈のように太くなっては、細くなる。同じ間隔で、ずっと。聞いた。轟きの底に、繰り返す拍がある。
そして——聴こえた。
水越しに、火の揺れが、聴こえた。速い。大きい。同じ調子で、ずっと繰り返している。なぜ聴こえるのかは、分からない。分からないまま、聴こえていた。
押し返そうとしては、いけない。
それだけは、知っていた。あの夜の水が、体ごと教えてくれたことだ。ぶつければ、こうなる。目の前の白い湯気が、その答えだった。
だから、争わない。
息のかたちを、整える。糸は、息で決まる。いちばん最初に教わったことを、いちばん底で使う時が、いま来たのだと思った。
吸って、止めて、長く吐く。私の息を、まず、あの速い揺れに合わせる。速いまま、いっしょに揺れる。逃げない。怖がらない。招く水の人のやり方で、隣に、並ぶ。
それから——少しずつ、遅くする。
私の息が遅くなるぶんだけ、足元の水面が、静かになっていく。息と同じ拍で静かになった水面が、その静けさを、水づたいに向こうへ運んでいく。
静まる場所を、つくる。
火が来てもいい。来ても、争わない場所。速いままでいてもいい。けれど、隣にはいつでも遅い拍がある——そういう場所を、水の上に息でつくっていく。
火の揺れが、一度、大きく乱れた。
それから、半歩、寄ってきた。
私の息の側へ。遅い拍の側へ。半歩、また半歩。私は目をつぶらずに、火の帯を見たまま、息だけを続けた。焦げた匂いの向こうで、湯気の白が、少しずつ薄くなっていく。
火の帯が、細くなった。
人の腕ほどあった太さが、手首ほどになり、指ほどになる。轟きが低くなって、水面の白い泡が、端の方から消えていった。
アルフォンス様の右手が——動いた。
一晩じゅう開いたままだったのだろう指が、震えながら、ゆっくりと閉じられていく。ひと筋だけ残っていた火が、その指の内側へ、吸い込まれるように収まった。何かが、あの人の手の中に、戻っていくのが分かる。
拳が、握られた。
音が、消えた。
夜明けの水辺に、湯気の名残だけが、ゆっくりと流れている。都の水の息が、遠くで、いつもの大きさに戻りはじめていた。
アルフォンス様の膝が、石畳についた。
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