第9話「呼吸を合わせて」間章
どれだけの時間が過ぎたのか、アルフォンスにはもう分からなかった。
場所は、変わっていない。安宿の前の、夜の水辺——指のあいだから火がこぼれはじめた、あの石畳の上だ。あれから、一歩も動いていない。動けば、火の先が水面から外れる。外れた先で燃えるのは、家か、舟か、人だ。この火を受けられるのは、水面しかなかった。
世界は、白い。
右手は、開いたままだ。あの晩から、指は一度も握れていない。その開いた指のあいだから、芯の黒い赤い火が、途切れない一本の帯になって水面へ注ぎ続けている。幅は、人の腕ほど。夜のあいだ、太くも細くもならなかった。
止めることは、できない。弱めることも、できない。アルフォンスにできるのは、向きを保つことだけだった。右手を水面へ向けたまま、動かさない。それがこの火に対して残された、たったひとつの手綱だった。
水面から立つ湯気が、水路も石畳も夜も、ぜんぶ白く塗りつぶしていた。月がどこにあるのかも、もう分からない。
右腕は、とうに感覚をなくしていた。肩から先が、自分のものかどうかも怪しい。ただ、火が出ていくのだけは分かる。体の底から腕へ、腕から夜へ。尽きる気配だけが、どこにもなかった。
止め方は、ぜんぶ試した。
息も、拳も、学院の日々で覚えた手順のすべても。何周目かで、順番すら分からなくなった。いまはもう、試すことをやめている。やめて、ただ立って、向きだけを保っている。それしか、できることが残っていなかった。
「アル様」
ハンスの声がする。何度目かの声だった。
「じき、夜が明けます」
それだけを言って、ハンスは半歩後ろに戻った。退がれと言っても、退がらない。近づきもしない。ちょうど腕の届かない距離で、彼は一晩じゅう、そこに立っていた。
都の側は、遠巻きだった。
湯気の白い壁の向こう、対岸や橋の上に、灯がいくつも集まっている。人が集まって、こちらを見ているのだ。舟も何艘か来ていたが、どれも離れた橋の下に留まって、それ以上は近づいてこない。時どき、誰かの叫ぶ声が上がる。何を言っているのかは、分からない。ただ、誰ひとり、白の中までは入ってこなかった。
水の都の人たちだ。水のことなら、誰よりも知っている。知っているから、近づかないのだろう。
その遠巻きの灯を、アルフォンスは、白の向こうにぼんやりと見ていた。
この都へは、ひとりを探しに来た。
三日遅れて海を渡って、市を歩いて、宿の帳場で断られて。それでも同じ都の空の下にいると思えば、探す足は軽かった。
その都の水を、いま、自分の火が湯気に変えている。
見つけたかった。こんな形で、都じゅうに知られる前に。会いたかった。こんな姿を、見られる前に。
どちらも、もう遅い。
空の白と、湯気の白の境が、少しずつ分かるようになってきた。
夜が、明けはじめている。
足元の石段は、夜半にはすぐ下まで水が来ていたのに、いまは下の段がいくつも現れていた。昨夜の大潮が、引きはじめたのだ、と頭の隅で思う。潮の満ち引きは、火とは関わりなく、律儀に巡っている。
「アル様。……人が」
ハンスの声が、初めて少しだけ変わった。
顔を、上げた。
霧の向こうから、灯がひとつ、近づいてくる。遠巻きの灯の輪から離れて、まっすぐに、白の中へ入ってくる小さな影がひとつ。誰も近づかなかった白の中を、その影だけが、歩いてくる。
灯の輪が、影の頭のあたりを照らした。
——亜麻色、だった。
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