第9話「呼吸を合わせて」前半②
敷居をまたいだ先に、舟は、なかった。
セリーヌさんの姿も、ない。ここへ来た時の小さな舟ごと、いなくなっている。
(……行って、しまったんだ)
私を、この場所に残して。
そこから先は、考えないことにした。考えはじめたら、足が止まる。いまは、止まりたくなかった。
母の水の間は、都のはずれの、昔の都にある。来た時は、セリーヌさんの舟で、灯の並ぶ水路からしばらくかかった。戻る道は、それを逆に、歩いて辿るしかない。
幸い、水路の際には、引き潮で現れたばかりの狭い段が続いていた。壁の石には濡れた帯の跡が高く残っていて、夜のあいだの水面の高さを教えている。いまの水は、そのずっと下だ。
私は灯を提げ直して、段へ足を下ろした。石は長く水に浸かっていたせいで、よく滑る。一歩ごとに足の裏で確かめて、進んだ。
昔の都の筋には、灯がない。長い道のりだった。
三歩あるいては、壁に手をつく。五歩あるいては、灯を持つ手を替える。灯がこんなに重いものだなんて、知らなかった。服は乾いている。水を離したおかげで、体に貼り付く重さはない。それなのに、寒さだけが骨のほうに残っていた。
それでも、足だけは止まらなかった。
耳の奥では、都の水の乱れが、まだ続いている。歩くうちに、乱れにはまんなかがあるのだと分かってきた。どの水音も、同じひとつの方角から崩れて、広がってくる。
行き先は、決めるまでもなかった。まず、人のいる水路まで戻る。それから——あの乱れのまんなかへ。母様ゆずりのこの耳が、道しるべになってくれる。
白い柱を見たのは、月水灯の並ぶ水路へ出た、最初の橋の上だった。
建物の切れ目の、まだ暗い空に、白い柱が立っていた。
月の光を受けて、白く太く、ゆっくり形を変えながら昇っている。煙にしては、白すぎる。雲にしては、根がある。根の場所は、ここからは見えない。
それでも、分かることがひとつあった。水の乱れのまんなかと、あの柱の根は、同じ方角にある。
都は、起きていた。
窓に、灯がひとつずつ増えていく。対岸の窓から人が半身を乗り出して、指をさしている。どの指も、同じ方角をさしていた。石の上を走る足音と、知らない言葉の声。舟が一艘、灯を提げて、柱の方角へ急いでいく。舳先で、小さな鈴がひとつ鳴った。こんな夜でも、舟は水に挨拶をしてから出ていくのだ。
どこかの水際では、市の支度らしい荷箱の音が続いている。騒ぎの中でも、朝の支度は始まっていた。
歩くほど、柱は太くなった。
橋をひとつ渡るたびに、近くなる。根のほうが白く煙って、やがて、路地の先の水路に薄い霧が出はじめた。匂いのない、白い霧だった。夜明け前の冷えた空気の中で、水面だけが白い息を吐いている。
欄干から水面へ手を伸ばしかけて、やめた。指先より先に、肌が気づいた。水の上の空気が——温い。
春の夜明け前の水が、こんな温度をしているはずがない。
分からないことが、ひとつずつ増えていく。増えるのに、足は速くなった。
空の低いところが、少しずつ明るくなりはじめている。
最後の橋を渡ると、霧はもう路地の中まで流れ込んでいた。灯の輪が白く濁る。人の声が、角の向こうで渦を巻いている。
私は灯を持ち直して——角を、曲がった。
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