第9話「呼吸を合わせて」前半①
どれだけそうしていたのか、分からない。
頬の下の石は、冷たさを通り越して、もう私の一部のようになっていた。灯はまだ、石の床の上で燃えている。ただ、油の減ったぶんだけ、火の輪が小さくなっていた。
——あれが消えたら。
その考えだけが、動かない体の中で、妙にはっきりしていた。あれが消えたら、この間は、ぜんぶ夜になる。
耳の奥では、遠い都の水が動いている。大潮の夜の、大きな息。ずっと聞こえていた、あの息だ。
けれど——いつからだろう。息の調子が、変わっている。
大きく吸って、大きく吐く。その長い呼吸のあいだに、変な波がいくつも挟まる。遠くで、たくさんの水音が短く重なって、崩れる。都の水の息が、乱れている。
潮の乱れ方では、ない。雨でも、ない。もっと——水そのものが、驚いているような音だった。何に驚いているのかまでは、分からない。分からないのに、そういう聞こえ方をしてしまう耳を、私は持っている。母様の血の側の、耳だ。
何が起きているのかは、分からない。分からないのに——胸の奥のどこかが、早く、と言った。
指が、動いた。
右手の指から、手首。手首から、肘。順番に、自分の体が自分に戻ってくるのを待つ。待ちながら、息のかたちだけを整える。吸って、止めて、長く吐く。体は、息から戻ってくる。この夜に、覚えたことだった。
肘をついて、上体を起こす。世界が一度大きく傾いて、それから戻った。濡れた服が、石の冷たさごと体に張り付いている。震えは、寒さのぶんだけではなかった。
這った。
灯までの数歩ぶんを、立たずに、這って渡った。柄を握ると、手のひらに細い温みが伝わってくる。この間に来てから初めて触れる、水ではないものの温度だった。
灯を持ち上げると火の輪の届く先が変わって、壁の読めない刻みが、ひとまわりぶん明るくなる。
立ち上がるのには、二度、失敗した。
三度目は、壁の刻みに指を掛けた。読めない文字の彫りの並びが、指の下で、確かな段差になってくれる。石に寄りかかったまま、膝が決まるのを待つ。
濡れて重くなった服のまま、あの階段は上れない。私は息を整えて、いちばん静かな声で——離れて、とたのんだ。
水は、ひやりとするほど、素直だった。
髪から、袖から、外套の裾から——水は細い糸になって下りていく。石の床を伝って、水盤の中へ、静かに戻っていった。私を離さなかった水が、離れて、と言えば離れる。ひと呼びぶんで視界の端が白くなったけれど、体は、見違えるほど軽くなった。
体より先に、術のほうが戻ってくる。……こういうところだけ、私は、母様の娘なのだった。
右手首の石は、いつもより静かだった。あるいは私の耳が、それどころではなかっただけかもしれない。
水盤は、静かだった。
何ごともなかった顔で鏡に戻って、灯の火をひとつだけ映している。私を呑んだ夜と、同じ顔で止まっている。
階段の方へ、足を向けた。
それでも出る間際に、一度だけ、振り返った。なぜなのかは、自分でも分からなかった。
灯を、掲げる。火の輪の端が、水盤の縁まで届く。
止まった水の、面のすぐ下——
藍が、ひとすじ、あった。
夜の藍だ。濃い水の底の方に、糸のように細く、ひとすじだけ沈んでいる。見間違いでは、ない。この色を、私は知っている。声で知って、それから、水で知った。いちばん温かい声の時の、あの人の色。
セリーヌさんの、藍だった。
人のいない止まった古い水の中に、あの人の温度だけが、ひとすじ残っている。
「……来たことが、あるの?」
声は掠れて、水の面に届いたかどうかも分からなかった。
水は、答えない。藍は、ただそこにある。それが何なのか、考える力は、いまの私のどこにも残っていない。ただ、小さな種のようなものが胸のいちばん奥に、ひとつ落ちた。
灯を持ち直して、私は水盤に背を向けた。
上りの階段は、長かった。
数える気力は、もうない。三段上っては壁に肩をつけて、息を整えて、また上る。灯の火の輪だけが、私と同じ速さで上ってくれた。
上るにつれて、空気が少しずつ、生き返っていく。動かなかった空気の中に、外の夜の匂いが細く混ざりはじめる。
濡れた石の匂いの向こうから、潮の匂いが届く。
石の口の敷居が灯の先に見えた時、その手前の段が、濡れて光っていた。
濡れているのに、水が、ない。
来た時、敷居をちょうど舐める高さにあった水面が、いまは敷居のずっと下で静かに鳴っている。夜のあいだ都をひとまわり大きくしていた水が、引きはじめているのだ。大潮が、終わりはじめている。
敷居の外から、夜明け前の色をした空気が流れ込んでくる。石の口の向こうには、水路の壁で細長く切り取られた空が見える。夜の黒が、端のほうからわずかに薄くなりはじめていた。風だ。ここで死んでいた風が、外では、ちゃんと生きている。
その風に乗って、遠い都の乱れた水音が、さっきよりはっきりと聞こえた。近い、と思う。近いのではなくて、私がこれから近づくのだ——そう思い直した。
何が起きているのかは、知らない。誰がそこにいるのかも、知らない。目立たずに静かに消えるのが計画だった私の、計画の外の足が——もう、先に決めていた。
濡れた敷居に、手を掛けた。
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