第8話「守りたいのに」後半②
月が、まるい。
低く大きく、都の空の低いところに掛かって、水面を白く照らしている。水位は昼より上がって、安宿の前の石段は、上から数えるほうが早い。大潮の晩だと、帳場の主人が言っていた。夜気は、ぬるかった。春の、夜のぬるさだった。夜風はあるかないかの弱さで、水面の月あかりを、たまに揺らすだけだ。石段の下では、繋がれた舟が上がった水に持ち上げられて、鼻先を揃えている。
寝つけないまま、アルフォンスは夜の水辺に出ていた。
市も、水際の口も、今日は届かなかった。明日の道筋は、立ててある。ひとつずつだ——そう手順を組む頭の下で、眠りだけが来なかった。灯の落ちた石畳を、ハンスが半歩後ろから、黙ってついてくる。
最初の異変は、右手だった。
熱い、と思った時には、革手袋の内側で指が勝手に開いていた。
理由が、ない。
怒っても、いない。誰の声も聞いていない。半年前、旧図書室の廊下で火の滲んだような何かは、今夜どこにもない。ないのに——熱は腹の底から手首へ、手首から指へ、道を知っている足取りで昇ってくる。
「……アル様?」
ハンスの声が、後ろで止まった。
アルフォンスは答えず、いつもの手順を踏んだ。拳をつくる。息を、長く吐く。内側の圧に、いつもの高さの堰を当てる。学院の日々で、幾度もそうしてきた通りに。
堰が、応えなかった。
低い唸りが、拳の中で鳴る。空気の焦げる匂いが、鼻の奥をかすめる。
「アル様——」
「……下がれ、ハンス」
言い終わるより先に、右手の指のあいだから火が、こぼれた。
芯の黒い、赤い火。こぼれた、という量では、すぐになくなった。拳を握り直しても、息をどれだけ長く吐いても、駄目だった。火は指の背を伝って手首を回り、袖口で一度ふくらんで、夜気の中へ立ち上がる。抑えるそばから、次が来る。こちら側に、火がもう、留まらない。
越えられた。
そう分かる瞬間が、あった。押し合っていた圧がふ、と手応えをなくして——それから火は、アルフォンスのものではない速さで動いた。
火が、水面に触れる。
じゅ、という音が、最初だった。それから音は数を増やして重なり、太くなって、低い轟きに変わった。石段の下の黒い水面が、白く煮立ちはじめる。泡が沸き上がっては割れ、割れた口から湯気が立って、月水灯の白青の中を白い柱になって昇っていく。
ぬるかった夜気が、水面の上で一気に熱風へ変わって、外套の裾を後ろへ煽った。熱が、頬を打つ。石畳が、足の下で細かく揺れている——揺れているのは石か自分の膝か、区別はもうつかなかった。湯気の匂いと焦げた夜気の匂いが、ひとつに混ざって鼻を塞いだ。
「アル様! お下がりを——」
ハンスの腕が、肩を後ろへ引く。引かれながら、アルフォンスの右手は、まだ夜へ向かって開いたままだった。握ることが、できなかった。指は開いたまま、火はそこから、途切れずに水面へ注ぎ続けている。
止め方を、知らないわけではない。知っているすべてを、もう試した。試したものはぜんぶ、越えられた場所の向こうへ流されていた。
なぜだ。
問いだけが、空回りする。答えは、体のどこにもない。
空には千切れた薄い雲が速い。際をかすめては流れていくのに、月は、隠れなかった。
対岸の窓に、灯がひとつ、またひとつと入る。人の声が、遠くで上がりはじめた。煮立つ水面の白が、月明かりの下を、水路の先へゆっくりと広がっていく。湯気の白は夜風に押されて、対岸の灯をひとつずつ霞ませながら、水路の奥へ流れていった。
都の水は、ぜんぶ、つながっている。
この水のどこかに、あの子がいる。
その水が、目の前で、沸いている。
自分の火で。
「アル様、いったん、お退きを!」
ハンスの声も、湯気の轟きの中では半分しか届かない。届いた半分にも、アルフォンスは、答えを持っていなかった。
月だけが、まるいまま、湯気の柱の向こうで白く光っている。
火は、まだ、終わらない。
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