第8話「守りたいのに」後半①
大潮の夜は、月から始まった。
まるくて、低い月だった。都の空の低いところに掛かって、水路という水路の水面を白く照らしている。宿の前の石段は、下から二段目まで水が来ていた。帳場の潮見の時計は、一本きりの針が、絵のいちばん端まで振り切れている。都じゅうの水が、今夜は、ひとまわり大きく息をしていた。
水面すれすれを、大潮の夜風が速く流れていた。棹の音のあいまに、風が耳元で細く鳴る。
「行きましょうか」
セリーヌさんは、小さな舟を自分で操った。棹の手つきに、迷いがなかった。舟は月水灯の並ぶ水路を離れて、灯のまばらな、静かな筋へ入っていく。建物の石が年を経て黒ずみ、窓の灯がひとつずつ減って、やがてなくなった。
水音だけが、ある。灯のまばらな筋では、月あかりだけが水路の幅いっぱいに落ちて、舟の影を石壁に高く映した。
「このあたりは、昔の都よ。……いまは、水と石だけ」
舟が、石の壁のあいだで止まった。
壁の根元に、四角い石の口が、水面のすぐ上に開いている。大潮で持ち上がった水面が、その口の敷居を、ちょうど舐める高さまで来ていた。
「——どうぞ」
セリーヌさんは灯を掲げて、半歩、退いた。先に、という形だった。
石の口の内側は、下りの階段になっている。敷居をまたいだ途端に、風が、死んだ。地上のどこにでもいた夜風が、ここにはいない。動かない空気の中で、手提げの灯の炎だけが、まっすぐに立っている。
セリーヌさんの灯が、後ろから段を照らしてくれる。段の数を二十まで数えて、やめた。数よりも先に、空気の変わっていくのが分かったからだ。
古い場所の匂いがした。濡れた石と、動かない水の匂い。この都に来てから、初めて嗅ぐ種類の匂いだった。
階段が終わると、そこが、間だった。
丸い石の間だった。天井は低く、壁には読めない刻みが、灯の届く高さまでびっしりと並んでいる。そして間のまんなかに——水が、あった。
止まって、いる。
都に入ってから、止まっている水を、私は一度も見ていない。都の水はぜんぶ、どこかへ向かって巡っていた。この水だけが、丸い石の縁の内側で、鏡のように動かずにいる。
黒い、と最初は思った。灯を近づけると、黒ではなかった。濃いのだ。深いところまで濃くて、灯の光が、面のすぐ下で行き止まる。
(……母様が、ここに)
立った。この石のどこかに。その思いだけを頼りに、私は、水盤の縁へ近づいた。
水が、来た。
呼んで、いない。
息も、まだ整えていない。指も、触れていない。なのに、鏡だった面がふくらんで、細い水の腕が縁を越えて私の足首に触れた。触れた、と思った時にはもう、二本目が手首に、三本目が肩に届いていて、冷たさより先に、なつかしい、という感じが体を走った——それが、いちばん、怖かった。
この水は、私を知っている。そうとしか思えない来かたで、来た。
「せ——」
セリーヌさん、と呼んだつもりだった。呼べたかどうか、分からない。次の息の前に、水は私を、呑んでいた。
深い。
沈んでいく、という感じすらなかった。上も下も、水だった。そう思う自分の、思う場所まで、水だった。
私の水は、呼ぶと、来てくれる。応えて、くれる。この水は、違った。呼んでいないのに来て、迎えるように包んで——離さない。押し返そうとして、押し返す場所がなかった。水と私のあいだに、境目が、ない。
同じ、なのだ。
古い水は、濃い。濃くて、私の水と同じものでできている。私の知っている水のやり方は招くことだけで、争うすべなど、どこにも教わっていない。
もがいた。もがくほど、水は私を、覚えている手つきで呑み直した。もがくたびに、私の輪郭が、水の中でにじんで、ほどけて、どこまでが私でどこからが水なのか、分からなくなっていく。
(……母様、)
(……母様、母様——)
呼んだ相手が母様なのか水なのか、それも、もう分からない。
胸元で、ひとつだけ、静かなものがあった。
外套の内側の、小さな重さ。布越しの硬さが、そこにある。そこだけが——そこの水だけが、まわりの古い水と、まざっていなかった。
井戸の水だ。
遠い麦畑の、朝の井戸の、あの静かな水のまま。この濃い水の底で、小瓶の中の水だけが、遠い井戸の顔をやめていない。
私は、井戸の水を知っている。
知っている水が、ここにある。なら——知らない水が、どこからか、分かる。
にじんでいた指の先が、ゆっくりと、私の指の先に戻ってくる。腕の線が、肩のかたちが、私のものに戻ってくる。どこまでが私で、どこからが水か。その境目が、胸元の小さな静けさをまんなかにして、もう一度引き直されていく。
息。
水の中で、息はできない。できないけれど——糸は、息で決まる。最初にそう教わった日から、私の水は、息とひとつでしか動かない。止めた息のその奥で、私は呼吸のかたちだけを、ゆっくりと整えた。
よく見て。よく聞いて。
井戸端の朝、母様はそう言って送り出してくれた。あれは、旅の挨拶ではなかったのだと、いまさら分かる。見なさい、聞きなさい——この国の、応えすぎるほど応える水を。
だから私は、見た。聞いた。もがくのをやめたのではない。もがく力が、尽きただけかもしれない。それでも、目と耳だけは、私のものとして残っていた。
そして、呼んだ。
自分の水を呼ぶ時の、いちばん静かな呼び方で。桶の水にするように。井戸に、挨拶するように。
——上へ。
浮いた、のだと思う。水面を割った顔に夜の空気が刺さって、私は石の縁に、爪を立てていた。眼鏡の面をいく筋も雫が走って、灯の火を、いくつにも割っている。
縁を越えて、石の床へ、転がり出た。
吐いて、咳き込んで——しばらく、動けなかった。濡れた石の冷たさが、頬から体へ、ゆっくり染みてくる。
自分で、戻った。
——半分は。
残りの半分が何だったのか、それは、分からない。水が離してくれたのか、井戸の水が何かをしたのか、それとも。考える力は、もう、どこにも残っていなかった。
顔だけを、上げた。
灯が、ひとつ、見えた。
石の床の上に、手提げの灯が、置かれたまま静かに燃えている。
セリーヌさんの姿は、なかった。
呼ぼうとした声は、音にならなかった。立とうとした腕は、石の上で震えて、崩れた。階段は、灯の向こうの暗がりの、ずっと先だ。遠い。この体には、遠すぎる。
止まった水の面が何ごともなかった鏡に戻って、灯の火をひとつ、映している。
耳の奥で、遠く、都の水が動いている。風の音は、ここまで届かない。大潮の夜の、大きな息。その息の底で、私は濡れた石に頬をつけたまま、動けずにいた。
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