第8話「守りたいのに」間章
船が外港に入ったのは、発って五日目の昼だった。
貨物にまぎれた渡りで、舷梯を下りる客はまばらだった。荷改めの列は、ゼノの寄越した文をひと目見ると、それ以上何も訊かなかった。どこまで届いている手配なのかは、アルフォンスには測りようがない。測れないまま、通してもらうしかない道だった。
「舟は、あちらでございます」
ハンスが、桟橋の先を示した。水脈行きと呼ばれる細長い小舟が、荷と一緒に、都の水路へすべり込んでいく。
都というより、水の上に石を並べた場所だった。
道のかわりに水路が走り、石の建物が水面から直接立ち上がっている。橋をくぐるたび、水の匂いが強くなった。アルフォンスの目は、景色を長く見なかった。橋の高さ、舟の速さ、岸の人の流れ。ひとつずつ確かめながら、その全部の中に亜麻色の髪をひとりぶん、探していた。
探す、という仕事は、この都では思っていたより難しかった。
正面から名乗れる身分では、ない。名目のない渡りで入った者が、役所や学院筋の帳面を訊いて回れば、訊いた口から足がつく。宿を当たろうにも、学院経由の滞在先はたいてい魔導院の息のかかった筋で——その筋の扉は、旅装の他国者に開かなかった。
「……こちらの宿は、紹介状のない客の問いには答えかねる、と」
三軒目から戻ったハンスが、低く報告した。責める色はどこにもなく、ただ事実だけが差し出された。
「そうか」
「明日は、水際の市を当たってみます。人の口は、帳面より開きますので」
昼のあいだ、アルフォンスも歩いた。
歩けば歩くほど、この都の水の多さが、体に入ってきた。帝国なら、いまごろ土と草が温みはじめる頃だ。この都の春は水の上を渡ってくるらしく、日なたにいても、指先が温まりきらなかった。水際の市の前も通った。荷舟から揚がったばかりの魚と湿った麻袋と、石の上で焼ける何かの匂いが、人の声と一緒に押し寄せてくる。探している色を目で拾いながら、その中を抜けた。声はどれも知らない言葉で、売り買いの調子だけが、帝国の市と変わらなかった。
空中に術式の光を描く者を、ひとりも見ない。かわりに、水路の縁の刻みが、舟の通るたび底から白く濡れ光る。火の国の目に、それはいちいち静かで、遠かった。
夕方、小さな橋の上で、アルフォンスは一度だけ足を止めた。夕方の光は水の色をしていて、低くなるほど水路の奥へ差し込んだ。石の壁の上半分が薄い金色に染まり、下半分は、もう夜の色をしている。灯の入りはじめた窓は、水面にもうひとつずつ、逆さの灯を持っていた。
橋の先の細い水路に、三階建ての石の宿が面している。窓のいくつかに、灯が入りはじめていた。その前の石畳の水辺——灯を提げた人々が行き交い、対岸の店先から、知らない言葉の笑い声が上がっている。
なんでもない、夕方の水辺だった。アルフォンスはそれを目に入れて、通り過ぎた。
「明日は大潮だねえ」
夜、泊まりの安宿の帳場で、主人が誰にともなく言った。壁に、文字盤のない丸い時計が掛かっている。一本きりの針が、絵の刻みの端の方へ寄っていた。
「大潮?」
「潮がいちばん大きく動く晩さ。水が上がるから、荷舟は昼のうちに済ませな」
アルフォンスは、その言葉を、旅の注意のひとつとして聞いた。聞いて、部屋へ上がった。
窓の外は、水と、灯と、夜だった。
この水のどこかに、あの子がいる。
同じ都まで来て、まだ、届かない。それでも、海の上の三日よりは近い。明日は市を当たる。市が駄目なら、魔導院の筋を遠回りに辿る。順に、ひとつずつだ。
アルフォンスは、旅装の外套を椅子へ掛けて、灯を消した。
夜が、更けていく。都の水音は、夜のあいだも止まらなかった。
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