↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/64

第8話「守りたいのに」前半②




中央魔導院は、都のまんなかの、大きな水路に面して建っていた。


白い石の高い壁に、窓が整然と並んでいる。学院の本校舎よりずっと静かで、ずっと厳めしい建物だった。この国の文字という文字が、ここへ集まってくるのだと、セリーヌさんは言った。


「記録の府よ。……ここでは、わたくしは案内が利くの」


閲覧の許しは、驚くほど簡単に下りた。セリーヌさんが受付の帳面に名前を書くと、その一筆で、記録庫の扉のいくつかが私にも開いた。第三席という席の重さを、私はそこで初めて知ることになる。


    




記録の日々が、始まった。


朝はいつも、右の手首から始まる。

石の奥で、火の核がひとつ、ふっと温もる。海を越えても、この挨拶は変わらずに届いた。遠い学院の朝を思いながら、私は石に指先でひとつ返す。顔を洗い、亜麻色の髪を束ねて、黒縁の眼鏡を掛ける。朝の手順の終わりに、いつもの私ができあがる。それから、部屋を出る。


宿を出て、舟で魔導院へ。朝の舟の上では、進む速さのぶんだけ風が生まれる。低い朝の光が水路の先から差して、波のひとつずつに薄い金の縁を付けた。昼は記録庫の高い書架のあいだで、母様の名前を探す。書架のあいだの空気は、紙と乾いたインクと、受付の水盤の水の匂いでできていた。夕方、月水灯がともる頃に、水路を戻る。そういう日々だった。


    




雨の日が、ひとつあった。細い雨で、水路の顔がまるごと変わる。月水灯の映りがにじんで、舟はみな幌を上げ、雨粒の輪が水面という水面で開いては消えた。魔導院の窓から見下ろすと、都の水は、雨の日も同じ速さで巡っている。


    




文の水封を初めて見たのは、閲覧の三日目だった。


セリーヌさんが書架から下ろした綴りの口に、栓のかわりの、細い水の帯が渡っていた。紙の束の合わせ目を、水がひと筋、帯のかたちのままとじている。濡れても、にじんでも、いない。ただ水が、文書の口で静かに帯になっていた。


「文の水封。大事な文書は、こうして水でとじるの」


セリーヌさんの指先が、帯の面をそっと撫でる。水の帯は結びをほどいて、ただの数滴に戻り、盆の上の小さな水盤へ落ちた。この国では、それが日用の作法らしい。封蝋しか知らない目に、水でとじられた文字は、静かな驚きだった。


    




母様の名前が見つかったのは、五日目のことだ。


見つけたのは、セリーヌさんだった。書架の奥から持ってきた薄い綴りにも、口に水の帯が渡っていた。指先の一撫でで封が数滴に戻り、綴りが開く。


開かれた頁の、上から三行目。読めない文字の列の中に、その三文字だけが、私にも読めるかたちで書かれていた。


エレナ。


「祭水の儀の、立会の記録。……この行に、お名前があるわ」


セリーヌさんの声は、いつもの温度のままだった。


「『母の水の間』。——そう呼ばれた祭水の間が、この都にあるの。その間での儀に、あなたのお母様が立った、という記録」


母の、水の間。


その名前が、胸のまんなかに、まっすぐ落ちてきた。


母様が、立った場所。母様がこの国で生きていた頃の足が、確かに踏んだ石の間。記録の中でしか会えないと思っていた昔の母様と、場所なら——場所でなら、会える。


セリーヌさんは、記録の先を勧めなかった。行きましょうとも、きっとお母様が、とも言わなかった。言われていたら——たぶん、立ち止まれたと思う。何も言われないから、私は自分の足で、その名前の方へ歩いていった。


(……母様)


井戸端の朝の、あの無音の糸を思い出す。よく見て、よく聞いて、と母様は言った。迷ったら見なさい、と小瓶をくれた。あの言葉とあの水は、ただの旅のお守りだったのだろうか。——この国のどこかに、母様が私のために残したものが、あるのではないか。


そう思いはじめると、もう、思う前には戻れなかった。母の水の間。その名前の中の「母」の一文字が、日ごとに、私の母様の一文字に育っていった。


    




潮見の時計を教えてくれたのは、宿の主人だった。


帳場の壁に、文字盤のない丸い時計が掛かっている。針は一本きりで、数字のかわりに、水の満ち引きの絵が細く刻まれていた。都の水位と一緒に、針がゆっくり回るのだという。


「じき、大潮だよ」


主人は、当たり前のことのように言った。この都では、潮の名前が、天気の話と同じ顔で暮らしの中にいる。


    




「母の水の間へは……行けるん、でしょうか」


訊いたのは、私からだった。


セリーヌさんは、書架の手を止めて、少しだけ考えた。


「昔の祭水の間だから、いまは使われていないわ。……下りられるのは、大潮の夜。水がいちばんよく応える夜よ」


「次の大潮は、いつですか」


「——明日の、夜」


セリーヌさんは、そこで初めて、私の目をまっすぐに見た。琥珀色の瞳は、静かだ。


「行ってみる?」


行きます、と答えた自分の声が、思っていたよりも速かった。


    




その夜、私は鞄のいちばん奥から、布ごと小瓶を出した。


無音の糸の封は、旅のあいだ、ひと巻きも緩んでいない。掌にのせると、井戸の水は、遠い朝の顔のまま静かだった。


迷っては、いない。いないはずなのに、私はその小瓶を、外套の内側の胸元へ移した。理由は、自分でもうまく言えなかった。


明日の夜、大潮が来る。





※本作はnoteでも掲載中です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。