第8話「守りたいのに」前半①
——声のした方を振り返ったまま、私はしばらく動けなかった。
月水灯の白青の下に、テオ様が立っている。旅装の外套の頭巾はもう下ろされていて、氷青の銀が、灯の色を静かに受けている。
夜風が、水面を低く渡って石畳を上がってくる。春の夜風だ。海の上で頬を刺した夜風とは、もう別のものになっている。それでも月水灯の下で、夜気はまだ薄く冷えていた。テオ様の外套の裾が、風のかたちにゆっくり揺れている。
「……テオ様」
半年ぶりに口にした呼び名は、思っていたより、ちゃんと声になった。
「どうして、ここに」
「それは、こちらの台詞だ」
テオ様は、石畳を数歩、近づいてきた。
「……ここは、俺の国だ」
低い声に、皮肉も笑いもなかった。ただの、事実の重さがある。
その重さの正体は、すぐに見えはじめた。
橋の上に、灯を提げた人影が二つ、動かずに立っている。テオ様が歩けば歩いた分だけ、その二つの灯も、音もなく間合いを変えた。行き合った夜の舟の舟頭が、棹の手を緩めて、頭巾の下ろされた顔へ低く頭を垂れていく。
テオ様は、そのどれにも、目をやらなかった。目をやらないことに慣れている人の、立ち方だった。
水の匂いの底に、店じまいのあとの煮炊きの名残が、まだ薄く混ざっている。夜のこの都は、灯を落としても、水の上の暮らしの気配を消さないらしかった。
あの旧図書室で、テオ様は自分の口で、私に教えてくれた。アクアニア魔導公国の、第二王子であること。王家の命令で、私を探しに来ていたこと。あの日、二人だけの秘密になったはずのものが、この土地では秘密でもなんでもない。夜の橋の警護も舟頭の礼も、ぜんぶが当たり前の顔をして、その事実の側に立っていた。
「学院から、生徒がひとり入ったと聞いた」
テオ様が、言った。
「名も知らないうちから——まさか、と思っていた」
「王宮には、報せだけは集まる。……その束の中の、一行だった」
その先の話は、しなかった。頭巾を目もとまでかぶって来た旅装で、供の灯は二つだけ橋に残している。報せの一行を自分の目で確かめに、夜のうちに来た——そういう来方だった。名前までは、報せに載っていなかったのだと思う。だから最初のあの声は、問いのかたちをしていた。
「……母様の記録を、調べに来ました」
私は、答えた。隠す相手では、ない。この人はもう、ぜんぶ知っている。
母様は、昔を語らない。訊けば、笑って答えない人だ。だから私は、海を渡ってここまで来た。
「学院の推薦を、いただいて。三月のあいだ」
テオ様は、すぐには何も言わなかった。薄水色の瞳が私を見て、それから私の後ろの——夜の都の水を見た。
「……リアネ」
「はい」
「この国の水は、お前に、よく応えるだろう」
それは、問いではなかった。風が、一度やんだ。水音だけが、二人のあいだに残った。
「応えることと、味方であることは、別だ。旧図書室で、俺がお前に話したことを——覚えているか」
「……忘れて、いません」
忘れられるはずが、なかった。王家が、母様の力の続きを——私を、欲しがっていたこと。テオ様の任務が、私を連れ帰ることだったこと。あの午後の旧図書室の冷たさごと、私はぜんぶ覚えている。
「あれは、終わった話じゃない」
テオ様の声が、一段、低くなった。
「この土地では、お前は、あの話の中を歩くことになる。それだけは——」
そこで、言葉が切れた。
切れたまま、続きは来なかった。言えない続きがあることだけが、灯の下の横顔から伝わってくる。その横顔が一瞬だけ、テオ様よりずっと年上の、知らない誰かの顔に見えた。
「……俺の口から言えるのは、ここまでだ」
「——こちらでしたの」
灯りがひとつ、宿の方から近づいてきた。
セリーヌさんだった。手提げの灯を掲げて、夜の石畳を音もなく歩いてくる。その足が、テオ様の姿を認めて、止まった。
止まって——それから、迷いのない角度で頭が下がった。
「殿下」
その一言が、夜の水音の上に、はっきりと響いた。
殿下。
学院では、誰も口にしなかった言葉。私とテオ様だけの秘密だった呼び名が、この土地では、灯の下で普通に呼ばれてそこにある。
テオ様の視線が、灯の主の上で、ひと呼吸ぶんだけ止まった。
ひと呼吸。それきり、テオ様は何も言わなかった。
「お戻りの由は、伺っておりました」
セリーヌさんの声は、いつも通り、優雅でよく通った。
「学院のご推薦で、この方の学びに、わたくしが同行いたしましたの」
「……そうか」
「ええ」
「長い滞在に、なるのか」
「さあ。——水の応え、次第ですわ」
短いやり取りだった。声はどちらも穏やかで、礼はどちらも正しかった。なのに私は、二人のあいだの夜気が一度も緩まなかったのを肌で聞いていた。
「リアネ。……よく休め」
最後に私を見て、テオ様はそう言った。
外套の背が、橋の方へ遠ざかっていく。橋の上の二つの灯が音もなくその背に付いて、三つの影は、月水灯の並びの向こうへ消えた。
セリーヌさんは、何も訊かなかった。
そういえばこの人は、あの見送りの朝——学院長先生の後ろに立っていた人だ。正門の前でテオ様が私の名前を呼ぶのを、見ていた人だ。訊かないのは、驚いていないからだ。
宿への短い石畳を歩きながら、私は、テオ様の切れた言葉の続きを考えていた。考えても、届かなかった。
旧図書室の長机の向こうで、本越しに視線をくれた人。その同じ人が、この土地では、灯の下で「殿下」と呼ばれて立っている。
怖さなら、海を渡る前から持っている。ひとつも減っていない。減らないまま知りに行くと、決めたのは私だ。
明日から、母様の記録が始まる。
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