第7話「水の都へ」後半①
アクアニアの外港に着いたのは、日の傾きはじめた頃だった。
外海の船は、ここまでらしい。都へは、そこから小舟に乗り換える。水脈行きと呼ばれる細長い舟で、舟頭がひとり、長い棹を持って舳先に立っている。
「ここから先は、水の道よ」
セリーヌさんと並んで、舟板に腰を下ろす。舟は音もなく岸を離れて、建物のあいだへ——水路の中へ、すべり込んでいった。
都は、水でできていた。
道のかわりに、水路が走っている。石造りの建物は水面から直接立ち上がって、扉の前に階段が数段、水の中へ下りている。橋の下をくぐるたび、別の水路が左右に枝分かれして、そのどれもがゆるやかに流れていた。止まっている水が、どこにもない。都じゅうの水が、ひとつの生き物の血みたいに、巡っている。
舟頭が、舳先の小さな鈴を、ひとつ鳴らした。
澄んだ音が、水面を渡っていく。角を曲がるたび、舟頭は同じように鈴を鳴らした。
「……あれは?」
「水に、挨拶したのよ」
セリーヌさんは、それだけ言った。水に、挨拶する。この都では、それが当たり前のことらしかった。
夕闇が下りはじめると、水路の縁に、灯がともりだした。
白に、ほんの少し青を混ぜたような光。月の色に似た、静かな灯だった。油の炎の色ではない。誰かが点けて回る様子もないのに、水際の灯は暮れていく順にひとつ、またひとつと目を覚ましていく。
その光の下で、私は、それを見た。
水路の縁石に、彫り跡が並んでいる。角の丸くなった、長い年月に擦られた刻み目。文字だ、と思った。読めないけれど、並び方が、文字の並び方をしている。
そして——舟が進むと、その刻みの底が、順にほの白く濡れ光った。
舟の押した水が縁石を撫でるたび、水の通った刻みだけが、内側からしめやかに光る。舟が進む。光が続く。読めない文字の淡い光の列が、水面すれすれを、舟と並んで走っていく。
——帝国では、描くのに。
空中に、光で描いて、燃えて、消える。私の知っている文字の魔法は、ぜんぶそうだった。ここの文字は、石に刻まれて、水の中に沈んだまま——ずっと働きつづけている。
誰の魔力の色も、していなかった。舟頭が通っても、私が通っても、刻みは同じ白さで光った。
不思議だった。不思議、というところまでしか、私にはまだ言葉がない。
水路が、ふいに広くなった。
建物の壁が左右に開けて、舟は、都の大きな流れへ出た。月水灯の白青が水面に幾筋も映って、揺れている。都の中心が、近い。
その、水の上に出た瞬間だった。
水が、こちらを見た。
——そうとしか、言えなかった。視線なんて、どこにもない。水面はただ灯を映して揺れているだけ。なのに、肌が、そう言った。この都に入ってからずっと感じていた気配が、いま、確かにこちらを向いた。
私は、舟縁を、そっと握る。
誰にも見られないように生きてきた。目立たないように、印を残さないように。その私を——この都の水は、見ている。
セリーヌさんは、隣で、静かに前を向いていた。
言わなかった。言える気が、しなかった。
舟は、月水灯の並ぶ水路を、宿のほうへ進んでいく。
鈴の音が、また、ひとつ。
母様の国の水の上を、私は、見られながら運ばれていった。
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