第7話「水の都へ」前半③
アクアニアは、大陸の東の果てにある。
帝国の、東隣。地図の上では陸つづきなのに、あいだの山は険しくて、人と荷は昔から海の道を使うのだという。学院から乗合馬車で東へ二日、帝国の東の港町へ。そこから船で、海岸沿いにさらに東へ——それが、母様の国への道のりだった。
——出航の朝の港は、潮の匂いがした。
嗅いだことのない匂いだった。魚と、濡れた木と、それから、もっと大きな何かの匂い。石造りの埠頭に、白い帆の船が並んでいる。人足の声。荷を吊る滑車の軋み。帝国の内側しか知らない私の耳に、港の音はぜんぶ、初めての言葉みたいに聞こえた。
「乗りましょうか」
セリーヌさんが、渡り板の前で振り返った。
私は、頷いて、その板を渡った。帝国の地面から、足が離れた。
海を初めて見たのは、船が湾の外へ出た、そのときだった。
甲板の手すりの向こうで、視界が、いきなり果てまで開けた。
水だ。右も、左も、前も、ぜんぶ水だ。井戸の水とも、水盤の水とも、川とも違う。量が、違う。世界のこちら半分が、まるごと水でできている——そんな景色が、あるなんて。
風が、髪をさらっていく。眼鏡を押さえて、私はただ、立ち尽くしていた。
大きい、とか、広い、とか。頭に浮かぶ言葉はどれも、目の前のものの前で、小さすぎて役に立たなかった。
しぶきが、ひとつ、手の甲に散った。
船首の切る波の、細かな飛沫。手すりを握った私の指先に、海の水が初めて触れた。
——あ。
その瞬間、体のほうが先に、思い出した。
この温度を、知っている。井戸端の、あの朝。母様の指先から立ちのぼった、無音のひと糸。名前の付けられない、果てのない温度。あのとき「井戸の水なのに、海の温度がした」と思った——その海に、いま触れている。
——あの糸の、温度だ。
母様は、この温度を、指先に持っていた。この果てまで続く水の温度を、あの小さな井戸端で、桶の水にまとわせていた。
母様が捨てた景色を、いま、私が初めて見ている。捨てたはずの海の温度を、母様はずっと体のどこかに残したまま、麦畑で水を汲んでいた。
目の奥が、少しだけ熱くなった。潮風のせいに、しておいた。
セリーヌさんは、甲板の少し離れた場所で、同じ海を見ていた。
風に、アッシュブラウンの髪がなびいている。その横顔は、いつもの穏やかさのまま、まっすぐ水平線へ向けられていた。何を思って海を見ているのか——それは、横顔からは何ひとつ読めない。
帰る人の顔にも、ただ運ばれていく人の顔にも、見えた。
私は、声をかけなかった。
船は、進む。
夕方になると、水平線が金色に燃えて、それから藍を残して暮れていった。夜の甲板の下で、船体が波を刻む音を、私は毛布の中で聞いていた。
明日の昼には、着くという。
母様の国。水の都、アクアニア。
鞄のいちばん奥で、小さな瓶の水が船の揺れに合わせて、静かに揺れている気がした。
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