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第7話「水の都へ」前半②



三月の休暇に入ってすぐ、アルフォンスは、フェルドラクの邸に戻った。


執務室へ続く長い廊下には、歴代当主の肖像画が並んでいる。鎧の男。剣を提げた男。その誰もが、笑っていない。フェルドラク家は、帝国の盾だった。剣ではなく、盾。守るために在る家の当主たちは、額縁の中からも、背後の何かを守るように前を見据えている。


その廊下の突き当たりで、父は待っていた。


    



「アクアニアへ、行きたいと」


侯爵エルハルトは、書類から顔を上げずに言った。ハンスを通して先に届けさせた申し出を、父はすでに読んでいた。


「遊学の名目で。三月のあいだ」


「許可しない」


即答だった。感情のない、冷徹な声。それから父は、ようやく顔を上げて、理由を三つ順に並べた。


「一つ。名目がない。フェルドラクの嫡男が、時節のよくない隣国へ渡る遊学など、どの筋に対しても説明が立たない。二つ。嫡男の分を越える。お前の身はお前のものではない。この家と、この家が守るものに属している。三つ。危険だ。あちらの水は、帝国の魔導の常識の外にある」


反論は、できなかった。


どれも、正しかった。名目の話も、分の話も、危険の話も——当主として、父として、何ひとつ間違っていない。理屈で挑めば、十のうち十、父が勝つ。それが分かるくらいには、アルフォンスは、この家の嫡男として育てられていた。


    




「……理由を、聞かん」


父が、書類へ視線を戻しながら言った。


「どうせ、口にできる類のものではないのだろう」


図星だった。あの子が行くから。それだけの理由を、この執務室で通る言葉に翻訳する術を、アルフォンスは持っていなかった。


理由なら、実は、もうひとつあった。あって——それこそ、口にできる類のものではなかった。半年前、旧図書室へ続く廊下でのことだ。聞くつもりのなかった言葉を、聞いてしまった。あの国の王家が、長いあいだ何を欲しがってきたのか。誰を、欲しがってきたのか。立ち聞きだった。だから父に言えず、本人には、なおさら言えない。言えない理由が、胸の中で二枚、重なっていた。


沈黙が、落ちた。


暖炉の火が、静かに燃えている。この部屋の火は、いつも正しく燃える。はみ出さず、揺れず、決められた薪を決められた速さで。


その火を見ながら、アルフォンスは、口を開いた。


「……許可を、いただきに来たのではありません」


父の手が、止まった。


「決めたことを、申し上げに来ました。——俺も、行く」


俺、という言葉がこの執務室で出たのは、初めてだった。敬語の鎧が、その一言だけ、剥がれた。誰が行くから「も」なのかを、父は問わない。問わないまま、長いあいだ、アルフォンスを見ていた。


    




「……理屈では、私が正しい」


やがて、父は言った。


「分かっていて、逆らうか」


「はい」


「フェルドラクの名に、傷をつけるな。それから」


父は、視線を書類へ戻した。


「戻ったら、話がある」


それだけだった。許しでは、なかった。黙認とも、違う。ただ、父と自分のあいだに細い線が一本、入ったのが分かった。折れてはいない。割れてもいない。でも、確かに入った線だった。


一礼して、執務室を出た。廊下の肖像画たちが、笑わない目で、それを見ていた。


    




正規の手続きで渡る道は、ない。名目のない嫡男に、船も通行証も出ない。


その手配を整えたのは、ハンスだった。


「渡りは、つけてございます」


学院へ戻る馬車の中で、ハンスは、一枚の文を差し出した。港の名と、三日後の夜明けの刻限と、船の名。そして、手配人の署名。


——ゼノ・フェルシーア。


忘れるはずのない、名前だった。


夏の、麦畑の家。水路の見回りから、土まみれの手で戻ってきた、緩く束ねた金茶の髪の男。気軽に片手を挙げながら、その水色の瞳だけは、一拍で人を測り終える目をしていた。抑えることをやめた水の魔力が、夕方の空気をちりちりと騒がせていた。あれは強い弱いの話ではなく、格の話だった。あの目に測られたとき、自分の背筋が勝手に伸びたのを、アルフォンスは覚えている。


あの男が、なぜ。


妹のためか。それとも、あの夕方の続きで、まだ何かを測っているのか。考えても、答えの出る相手ではなかった。


「なぜ、この男が動く」


「……さて。手前にも、分かりかねます」


ハンスの返事は、そこまでだった。分からないまま、乗るしかない船だった。


「ハンス」


「はい」


「お前は、残っていい」


「——お供いたします」


即答だった。何もしない、と言った日の主の返事と、同じ速さだった。見れば、馬車の荷台には、もう二人分の旅支度が積んであった。


    




あの子の船は、明日の朝、発つ。


こちらの船は、三日後の夜明け。同じ水の都へ、別々の航路で。


あの子は、知らない国へ行くのだと思っている。たぶん、そうではない。あちらは——あちらの水の国は、あの子を知っている側なのだ。そう言い切りそうになって、アルフォンスは言葉を途中で仕舞った。


アルフォンスは、革手袋の上から、自分の右手を一度だけ握った。


理屈では、父が正しい。それでも行くと決めた自分を、正しいと言ってくれるものは、まだどこにもない。ないままで、行く。


窓の外を、春の近い野が流れていった。






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