第7話「水の都へ」前半①
——学院に戻ると、冬の名残はもう、中庭の日陰にしか残っていなかった。
麦畑の家から持ち帰った鞄を、寄宿舎の部屋で解く。着替えの奥、布にくるんだ小瓶が、指先に触れた。無音の糸で封じられた、井戸の水。私はそれを確かめるだけ確かめて、また鞄のいちばん奥へ戻した。
三月は、もう目の前まで来ていた。
渡航の許可は、学院長室で下りた。
「アクアニアへの遊学、ですね」
マルガレーテ先生は、机の向こうで、書類にゆっくりと署名をした。銀色の髪は、今日もひと筋の乱れもなく結い上げられている。
「セリーヌさんの推薦と、指導実績。手続きの上では、何も問題はありません」
手続きの上では。その言い方が、少しだけ気になった。気になったときには、先生はもう穏やかな微笑に戻っていて、署名を終えた書類を静かにこちらへ差し出していた。
「よく学んでいらっしゃい」
「……はい」
「あちらには」
先生は、そこでひと呼吸、間を置いた。灰青の瞳が、まっすぐに私を見た。
「この帝国が教えないものが、たくさんありますから」
それは、送り出す言葉のようでもあり、何か別のことを言っているようでもあった。どちらなのかを確かめる前に、先生は視線を次の書類へ落としていて、面談は終わっていた。
廊下に出てから、私は、もらった書類を胸に抱え直した。
帝国が、教えないもの。
母様の国。母様の記録。それから——私のまだ知らない、何か。学院長先生のあの言い方は、そのぜんぶを知っている人の言い方にも、聞こえた。聞こえただけで、確かめようはなかった。
一組に私を置いた人。フェルシーアの名を、重たく繰り返した人。あの人は、私がアクアニアへ行くことを、どう思っているのだろう。
止められなかった。それだけは、確かだった。
出発の前夜、荷造りはあっけなく終わった。
服が数枚。筆記の道具。母様の眼鏡は、顔の上に。ブレスレットは、右の手首に。持っていくものは、最初から決まっていた。
窓の外で、春の近い夜風が、芽吹きはじめた中庭の枝を揺らしている。
明日、船に乗る。
海を、初めて見る。母様が捨てた国へ、母様の娘が、初めて渡る。
眠れない夜になるかと思ったのに、目を閉じたら、思いのほか早く眠りは来た。怖いままで、知りに行く——その決心がいつのまにか、私の眠りを支える骨になっていた。
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