第6話「麦畑の、家」後半②
——発つ朝は、よく晴れていた。
雪解けの水が、野道の轍で光っている。父様は黙って、私の鞄を乗合馬車の停留所まで運んでくれた。何か言いたそうで、結局いつもの頷きだけをくれる。その不器用さが、父様だった。
戸口の銀の鈴の下で、母様が待っていた。
「リアネ。これを」
差し出されたのは、手のひらに収まるほどの、小さな透きとおった瓶だった。
中で、水が揺れている。
「井戸の、水よ」
瓶の口を見て、私は、息を呑んだ。
栓が、なかった。栓のかわりに、細い水の糸が、瓶の口をぐるりと縒って封じている。右へ、また右へ、それから左へ——昨日の朝、井戸端で見た、あの無音の糸だった。あの糸が、そのまま小さく縒られて、蓋になっている。
水が、水を封じている。逆さにしても、一滴もこぼれる気がしなかった。
「……母様、これ」
「迷ったら、これを見なさい」
何に効くのか、どう使うのかは、言わなかった。訊いても、たぶん、笑って答えないのだと思う。
お守り、なのだと思った。私はその小瓶を、鞄のいちばん奥に、布にくるんでしまった。
「行ってきます」
馬車の前で、私は頭を下げた。
母様の手が、私の頬に触れた。一年前の、あの出発の朝と同じように。あのとき母様は、こう言った——目立たず、騒がれず、無事に帰っておいで、と。
今朝の母様は、少しだけ、違うことを言った。
「——よく見て、よく聞いて、無事に帰っておいで」
目立たず、では、ない。
その違いに気づいたのは、馬車が走り出してからだった。気づいて、振り返る。戸口の銀の鈴の下で、母様は、まだこちらを見ていた。深い海の底のような蒼の瞳が、遠ざかる私を、まっすぐに見送っていた。
麦畑が、遠くなっていく。
浅い緑の畝と、溶け残りの白と、その向こうの小さな家。銀の鈴の音は、もう聞こえない。
鞄の底で、小瓶が静かに揺れている。
行き先は、まだ帝国の学院だ。母様の国へ発つのは、三月——もう、すぐそこまで来ている春の話。
怖いままで、知りに行く。
その決心と、無音の糸で封じられた小さな水を、私は一緒に連れて麦畑の家をあとにした。
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