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第6話「麦畑の、家」後半①



——雪解けの道は、ぬかるんでいた。


乗合馬車を降りて、見慣れた野道を歩く。冬を越した麦畑が、家の背後に広がっている。まだ緑は浅くて、溶け残りの雪が畝のあいだに白く筋を引いていた。


いつ決めたのだろう、と歩きながら考えて、途中でやめた。

決めた瞬間なんて、たぶん、どこにもない。根雪が春に緩むみたいに、気づいた時にはもう傾いていたのだ。目立たずに静かに消える、が私の計画だった。その計画に書かれていない国へ、行くと決めている自分が、雪解けの道を歩いている。怖さは、あの夜のまま底にある。ただ同じ底で、知りたい、のほうが深かった。そのことに気づくのに、ひと冬かかった。


家の戸口の、銀の鈴が鳴る。


「おかえり、リアネ」


母様が、張り出しのテラスから下りてきた。銀に近い金の髪。深い海の底のような、蒼の瞳。麦の匂いのする手が私の頬に触れて、冷えてるわ、と笑った。


その後ろで、父様が黙って頷いた。おかえり、のかわりの、いつもの頷きだった。


    




告げたのは、夕方の居間だった。


暖炉の火。テーブルの上の、湯気の立つスープ。言う前に、指先で眼鏡を押し上げた。レンズの向こうの母様の顔が、一段、近くなる。それから、ゆっくり息を整えた。


私は、膝の上で手を握って、切り出した。


「母様。話が、あります」


「なあに」


「——母様の国へ、行きます。三月に。中央魔導院の、セリーヌさんという方と」


言った。言ってしまった。母様が捨てた国の名前を、母様の前で。


母様は、スープの匙を、静かにテーブルへ戻した。


驚かなかった。


それが、少しだけ、不思議だ。反対の言葉も、心配の言葉も、すぐには出てこなかった。母様はただ、私の顔を、ひと呼吸ぶんだけ長く見ていた。何かを確かめるような、何かを手放すような、そのどちらともつかない目で。


「……中央魔導院の、方なの」


一拍だけ、母様は黙った。


暖炉の火が、小さく爆ぜた。それきり母様は、その名前には触れなかった。


「そう。——行っておいで」


止められると、思っていた。せめて、案じられると。なのに母様は、行き先も、連れの名前も、それ以上は何ひとつ訊かずにそう言った。まるで、この日の来ることを、ずっと前から知っていた人みたいに。


「危なくないの、とか、訊かないんですか」


「訊いてほしい?」


母様は、少しだけ笑った。


「あなたはもう、決めた顔をして帰ってきたもの。決めた子に訊くことは、ひとつだけよ」


「……ひとつ?」


「ちゃんと、食べてから行きなさい」


スープが、まだ湯気を立てていた。


    




次の日の朝、井戸端で、母様が水を汲んでいた。


朝の空気は、まだ冬の名残で乾いて冷たい。桶の水面が、白い空を映している。手伝おうとした私に、母様は、ふと言った。


「向こうの水はね、よく応えるの」


「……え?」


「応えすぎる、くらい。この国の水とは、ちがう。——だから、呼び方に、気をつけなさい」


どうして、とは訊けなかった。訊く前に、母様の指先が、桶の水面にそっと触れた。


糸が、一本、立ちのぼった。


音が、しない。


私の糸は、呼ぶとき、かならず小さな水音を立てる。母様の糸は、生まれるときも、昇るときも、まったくの無音だった。そして——桶の水面に、波紋がなかった。水を取られたはずの水面が、何ひとつ奪われていない顔のまま、白い空を映しつづけている。


細い糸が、右へ、また右へ、それから左へ。ゆったりと縒れながら、朝の光の中に立っている。


私の肌が、その糸の温度を拾った。


藍色では、なかった。それとは別の、名前の付けられない温度。深くて、静かで、果てがなくて——井戸の水なのに、海の温度がした。


体が、黙った。すごい、という言葉すら、どこにも浮かばなかった。


    




母様は、糸を、桶の水面へ静かに帰した。


それから、白い息をひとつ、吐いた。


長い息だった。朝の冷えた空気の中に、白く、細く、ゆっくりとほどけていく。雪解けの朝は寒い。息が白いのは、当たり前のことだった。


「——ね。呼び方ひとつで、水はこんなに変わるの」


母様は、いつもの声で言って、桶を持ち上げた。


そのとき、家の戸口から父様が出てきた。手には、湯気の立つ白湯の椀。父様は何も言わずにそれを母様の手に持たせて、桶を代わりに提げて、家の中へ戻っていった。


母様は、白湯を両手で包んで、少しだけ目を細めた。


なんでもない、朝の光景。私はまだ糸の余韻の中にいて、その白湯の意味を、考えもしなかった。


    




その日は一日、ただの家の子に戻った。


午前は、母様と台所に立った。冬のあいだに漬けた保存の瓶を開けて、パンを焼いて、湯気の匂いの中で袖をまくる。母様の手際は水の糸のときと同じで、静かで、迷いがなかった。


午後は、父様について、麦畑の見回りに出た。畝のあいだの雪はもうほとんど消えて、浅い緑が、風にそよいでいる。父様は長いこと黙って歩いて、畑のいちばん端で、ひとことだけ言った。


「……今年は、いい麦になる」


それが、いってらっしゃい、のかわりなのだと分かった。麦がまた実るころ、帰ってくる場所がここにある。そういう意味の、父様の言葉だった。


夕方、母様は私の外套のほつれを繕ってくれた。ランプの灯りの下で、針がゆっくり進む。私はその手元を、椅子の上で膝を抱えて、いつまでも見ていた。


なんでもない一日だった。このなんでもない一日を、私は明日、鞄に詰めて連れて行くのだと思った。





※本作はnoteでも掲載中です。

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