第6話「麦畑の、家」前半③
決めた瞬間のことは、たぶん、一生忘れない。
特別な何かが、あったわけではない。ある夕方、寄宿舎へ戻る渡り廊下で、私はまた遠くにあの立ち話を見た。セリーヌさんと、カトリーヌ様。四度目だった。声は、聞こえない。意味も、分からない。
分からないまま、私はふと、立ち止まって考えた。
このまま冬が終わって、セリーヌさんが行ってしまったら。
あの立ち話の意味も、あの「おめでとうございます」の道筋も、母様の昔も、ぜんぶ分からないまま遠くへ行ってしまう。
そして私は、分からないものの数を数えながら、この学院でまた息をひそめて生きていくのだ。
——それは、嫌だ。
その気持ちは、思っていたよりずっとはっきりした形で、胸の底から浮かび上がってきた。
怖いものは、怖いままだった。
セリーヌさんが何を知っていて、何を知らないのか。あの穏やかさの底に何があるのか。それは、行っても行かなくても、分からない。でも行かなければ、分からないままですらいられない——遠ざかって、届かなくなるだけ。
母様の記録に、憧れたからじゃない。
怖いものの正体を、知りたいからだ。昼の冷えも、答えない微笑も、ぜんぶ鞄に詰めて持っていく。怖いから行かない、のではなくて。
——怖いままで、知りに行く。
十三歳の私が、生まれて初めて、自分の足で選んだ行き先だった。
次の日の稽古じまいに、私は言った。
「……行きます。母様の国へ」
セリーヌさんは、水盤から顔を上げた。琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見て、それからゆっくりと微笑んだ。
「そう」
それだけだった。よかった、とも、嬉しいわ、とも言わない。まるで、この答えを最初から知っていたかのような、静かな受け取り方だった。
その静けさが、また少しだけ、怖かった。怖いままで、いい。私はもう、決めたのだから。
放課後の結界の中で、アルフォンス様にも告げた。
「三月に、セリーヌさんと、母様の国へ行きます」
二色の光が、静かに流れている。アルフォンス様は、すぐには何も言わなかった。革手袋の指先が、机の上で一度だけ、こつりと鳴った。
「……いつ戻る」
「分かりません。母様の記録を、確かめられるまで」
「そうか」
短い返事だった。それきり、アルフォンス様は膜の向こうの書架を見ていた。
でも、その金の瞳の色が、変わっていた。反対する色でも、寂しがる色でもない。何かを、静かに決めていく色。灯の芯が、音もなく据わっていくような。
その色の意味を、私はまだ、知らなかった。
三月が来る前に、ひとつ、しなければいけないことがある。
家に、話しに帰ること。
母様の国へ行くと、母様に告げること。それが、どんな顔をされることなのか、私にはうまく想像がつかなかった。喜ぶだろうか。心配するだろうか。それとも——母様が捨てた国の名前を、私の口から聞くことになる母様は。
雪解けを待って、私は、麦畑の家へ帰ることにした。
※本作はnoteでも掲載中です。




