第5話「十三の、灯」後半①
——翌朝、教室の席に着いても、手首の奥は静かなままだった。
いつもなら、座ってすぐに届く、朝の挨拶。今朝は、それが来なかった。
来ないまま、一時限目の予鈴が鳴るころになって、ようやく火の核がふわりと温もった。いつもより遅くて、いつもより短い。すっと灯って、すっと引いていく。
窓際の席を見ると、アルフォンス様は、いつもどおり素知らぬ顔で外を見ていた。そう、見えた。
——お疲れなのかな。
昨日は、あの静かな放課後を整えるのに、ずいぶん気を回してくれたはずだから。私はそう思うことにして、机の下で、遅れて届いた短い温もりに指先だけで小さく返した。
二時限目のあとの休み時間だった。
近くの席で、セドリック様が大きく伸びをした。その右腕の袖口に、焦げ茶色の細い筋が一本、走っているのが見えた。
——焦げ跡?
布の織りに沿って、まっすぐに走る細い線。訓練でついたのだろうか。でも、セドリック様は手際のいい人だと聞く。自分の袖を焦がすような人だっただろうか。
見ていたら、セドリック様がふと私の視線に気づいて、袖口をさりげなく直した。それから、明るい顔でにっと笑った。
よく知っている、笑顔。ただ、袖口を直したその手つきだけが、少しだけ速かった。
胸の底で、何かが小さく引っかかった。何が、とは言えない。言えないまま、その引っかかりは、抜けずに残った。
昼休み、旧図書室へ向かう渡り廊下でだった。
廊下の先の柱のそばに、二人の人影が立っていた。
セリーヌさんと——カトリーヌ様だった。
声は、聞こえない。セリーヌさんが何かを言い、カトリーヌ様が扇の陰で小さく応える。なんでもない立ち話に、見えた。
——めずらしい、組み合わせ。
あの二人に接点があるなんて、考えたこともなかった。ただ——その光景が、なぜだか、目の端に貼りついて離れない。
私は、足を速めて、旧図書室へ入った。
その日の稽古じまいに、セリーヌさんは、ふだんより少しだけ長い間を置いた。
「リアネさん。ひとつ、お話があるの」
琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「わたくしが此処にいられるのは、三月までなの。中央魔導院から、そう決められています」
——三月、まで。
思っていたより、ずっと近い区切りだった。この指導も、母様の昔の話も、あと数か月で終わる。胸の奥が、すうっと冷えた。
「それでね」
セリーヌさんは、変わらない穏やかさのまま、続けた。
「三月になったら、わたくしはアクアニアへ帰ります。中央魔導院の書庫へ。あなたのお母様の記録が、眠っているところへ」
水盤の水面が、昼の光を静かに返している。
「——一緒に、来ませんか。お母様の国へ」
一瞬、何を言われたのか、分からなかった。
母様の、国。
アクアニア。母様が生まれて、母様が捨てた国。私がまだ一度も見たことのない、水の都。母様の昔が、記録のまま眠っている場所。
昨日、私は、生まれて初めて知った。誰かに本気で祝われる日の温かさを。十三の灯がともった、あの静かな放課後。ここが居場所だと、初めて思えた場所。
その、翌日に。
母様の国への扉が、目の前で、静かに開いていた。
「……すぐに、答えなくていいのよ」
セリーヌさんは、やわらかくそう言って、古文書を鞄へしまった。
「ただ、覚えていて。あなたの水の続きは——この帝国には、書かれていないの」
そう言い残して、足音も立てずに扉の向こうへ消えた。
その夜、寄宿舎の部屋で、私は右の手首を胸に引き寄せた。
薄水色の石のいちばん深いところで、火の核は、静かに灯っている。
昨日ともった、十三の灯。今日ひらいた、三月の扉。ふたつは胸の中で、同じ場所に並んだまま、どちらも動かなかった。
目立たないように卒業して、そのまま静かにいなくなる。長いあいだ、私の計画はそのひとつきりだった。その計画のどの頁にも、母様の国は書かれていない。書かれていない頁が——今夜、勝手にめくれてしまった。
誘ってくれた人は、母様の昔を知っている人で——私の知らない何かを、知っているかもしれない人だった。行くのも、怖い。断るのも、怖い。それなのに、知りたい気持ちだけが、怖さと同じ深さで底のほうに灯っている。
核は、昨日と変わらず、温かかった。
その温かさだけを確かなものにして、私は、答えの出ない夜を越えようとしていた。
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