第5話「十三の、灯」間章
その日の夕方、アルフォンスは訓練場にいた。
週に二度の、火属性の実技鍛錬。冬の夕暮れの訓練場には、的の並ぶ石壁と、白い息を吐く火使いの生徒たち。
「よお」
隣の射線に並んだのは、セドリック・ヴァン・クロイツだった。
茶色の髪を快活に揺らす、同じ一組の火属性の級友。
軽薄そうな男で、クロイツ伯爵家の次男という札は、たぶん本人がいちばん忘れている。
誰もがアルフォンスから一定の距離を保つなかで、幼い頃から当たり前の顔で隣にいた。畏怖も、遠慮も、こいつの辞書には最初から載っていない。それどころか、火が荒れていた昔のアルフォンスに「まずはその殺気を抑えろ」と言い続けてきたのは、家庭教師でも父でもなくこの男だった。
アルフォンスにとって、友人と呼べる人間は、この学院にひとりしかいない。
「で! うまくいったのか、今日の」
「……ああ」
「よし! なら礼はタルトな。購買の、木苺の。……いや、二個だ。今日の俺は働いた」
廊下の見張りを頼んだ礼が、タルト二つらしい。安いのか高いのか、分からなかった。ただ、セドリックが今日一日、誰よりも張り切って廊下の人払いをしていたことは知っていた。
「てか、お前! 朝からずっと浮かれてたろ」
「……気のせいだ」
「気のせいなわけあるか! 気のせいで人払いを頼む奴がいるか。で、どうだった。喜んだか? なんか言ってたか? なあ」
アルフォンスは、答えないことにした。長い付き合いの友人は、引き際というものを知らない。知らないまま、十三年、隣にいる。
アルフォンスは、革手袋を外して、的に向かった。
指先に、火を灯す。
いつもどおりの、抑えた出力。的の中心へ、細く撃つだけの、なんでもない鍛錬のはずだった。
火が、出た瞬間に、膨れる。
芯が急に太り、橙の縁が金に濁り、低い唸りが指先から立ちのぼって、空気の焦げる匂いがふわりと鼻をつき、的へ向かうはずだった火は意図の倍の太さで走りながら射線の外へたわみ、隣で構えていたセドリックの、振り上げた右腕の袖を、掠めた。
一瞬が、長い。
火はそのまま石壁に当たって散り、セドリックは腕を上げた姿勢のまま固まっていて、その右の袖口に、焦げ茶色の細い筋が一本、煙の匂いだけを残して走っていて、アルフォンスの頭の中では、十三年ぶんの何かが、音を立てて軋んでいた。
——焼いた。
いや、まだ焼いていない。布が、焦げただけだ。肌には、届いていない。届いていないが、あと半歩ずれていたら、あと少し火が太かったら、この男の腕は。
母ですら、扉越しだった。近づけば、焼くからだ。だから誰も隣に立たなかったし、立たせなかった。それでも当たり前の顔で隣にいたたった一人の男の袖に、いま、自分の火が。
アルフォンスは、指先の火を、絞った。
蛇口を細めるように、出ていく流れを細く、細く、指の中へ。唸りが遠のく。膨れた火が、しぼんで消える。手の中に、抑え込んだ熱の塊だけが残った。
訓練場が、静かだった。
セドリックが、ゆっくりと腕を下ろした。焦げた袖口を一度見て、それから、アルフォンスを見た。
「……悪い」
アルフォンスの口から出たのは、その二文字だけだった。声が、思ったより掠れていた。
「怪我は」
「ない。布だけだ」
セドリックは、袖を軽く払った。いつもの軽口が、そこで出るはずだった。「弁償はタルト十個な」とか、そういう、いつもの。
出て、こなかった。
「……アル」
セドリックの声から、笑いが消えていた。
「お前の火、今日、変じゃないか」
「……」
「俺も火使いだ。それに、お前の火はガキの頃からずっと隣で見てる。だから、分かる。出力の話じゃない。なんか——質が。芯のところが、揺れてる」
アルフォンスは、答えなかった。答えられなかった。芯が揺れている。その言い方は、自分の内側の感覚と、怖いくらいに一致していた。
「……気のせいだ」
ようやく、そう返した。セドリックは、しばらく黙ってアルフォンスを見ていた。それから「ならいいけど」と、静かに言った。いつもの軽い調子には、戻らない。
訓練場の端、指導教官の立つあたりに、ヴァルターがいた。
魔法実技の老教師の温和な目が、生徒たちの列を順に眺めて、それから一度だけ止まった。焦げたセドリックの袖口の上で。次に、アルフォンスの手元の上で。
何も、言わなかった。
丸い銀縁の眼鏡が、冬の夕暮れの最後の光を、鈍く受けていた。
鍛錬を終えて、アルフォンスは革手袋をはめ直した。
手の中には、まだ、抑え込んだ熱の名残がある。芯のところが、揺れてる——セドリックの言葉が、耳から離れなかった。
こんなことは、十三年、一度もなかった。感情が乱れたわけではない。むしろ今日は、この十三年でいちばん、静かで満ちた日のはずだった。
祝いを終えて、あの子と別れて、それからここへ来た。
それだけの、並びだった。
理由は、分からない。分からないまま、たった一つだけ、決めたことがあった。
——誰にも、言わない。
あの子には、絶対に。今日という日の温かさに、この軋みの影を、一滴も落とさせない。
冬の最初の星の下で、アルフォンスは、焦げた袖の残像を手袋の中に握り込んだ。
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