第5話「十三の、灯」前半②
——誕生日の朝は、よく晴れた冬の日だった。
十三に、なった。鏡の中の自分は昨日と変わらない。眼鏡をかけ、髪を整え、ブレスレットを右の手首に通す。猫背のまま、教室へ向かう。
席に着くと、手首の奥で、火の核がふわりと温もった。
いつもの、朝の挨拶。でも今朝のそれは、いつもよりひと呼吸ぶん、長かった。温もりが、すっと引かずに手首の上にとどまっている。言葉はひとつもないのに、それが何を言っているのかは、分かってしまった。
私は机の下で石に指先を当てて、その温もりを最後まで受け取った。
窓際の金の瞳は、素知らぬ顔で外を見ていた。
昼休みの旧図書室で、セリーヌさんは水盤を出した。
糸を呼ぶ。息で細める。今日の私の指は、朝の温もりの余韻で、少しだけ浮ついていた。
三本目の糸が、右へふた巻き、左へひと巻き——手が勝手にそう縒って、やわらかくたわんだ。
「今日は、ここで一度、止めましょうか」
セリーヌさんの声で、糸を水盤へ戻す。顔を上げると、琥珀色の瞳が、水面の名残を静かに見ていた。何も、言わなかった。
その沈黙が終わるのを待たずに、セリーヌさんは、ふっと微笑んだ。
「そういえば——お誕生日、おめでとうございます」
背筋が、冷えた。
言って、いない。この日にちを、私は、あの結界の中でしか口にしていない。膜の外の音ごと切り離された、あの密室で、ただ一人にだけ。そこからハンスさんとセドリック様へ。道筋は、それで全部だ。数えられる。指を折って、確かめられる。
その、どこにも、この人はいない。
「……どうして」
「あら。おめでたい日を、おめでとうと言ってはいけないかしら」
セリーヌさんは、変わらない穏やかさのまま、小さく首を傾げた。どうして知っているのかには、答えていなかった。答えないまま、微笑んでいた。
「十三歳。いい歳ね。いろんなものが、始まる歳」
祝いの言葉の、はずだった。きれいに包まれた、その日いちばん飾られた祝辞。なのに私はそれを、うまく受け取れないまま、膝の上で手を握っていた。
変わらないことが怖かった、あの感じが、形を変えていた。
——見られて、いる。
どこからか。どこまでか。それは、分からないままだった。
午後の授業のあいだも、昼の冷えは、袖の下に残っていた。
ノートを取る手が、ときどき止まる。あの微笑を思い出すたび、教室の窓の外の冬空まで、うすく他人の目の色をした。
それでも、手首の奥には、朝の温もりの記憶がある。ひと呼吸長かった、あの挨拶。今日はまだ、終わっていない。冷えたぶんだけ、放課後を待つ気持ちのほうが、意地みたいに強くなっていった。
放課後の鐘が鳴って、私は旧図書室へ向かった。
扉の前で、一度だけ、足が止まる。昼の、あの声がまだ部屋に残っている気がした。
それでも、押した。
放課後の旧図書室には、何もなかった。
飾りも、菓子も、包みも、何も。いつもの長机と、いつもの西日と、いつもの席のアルフォンス様だけ。
ただ、廊下が、静かだった。ふだんは遠くに聞こえる足音や話し声が、今日はひとつもない。扉の外の廊下の先に、ハンスさんが静かに立っている気配だけがある。万事、整ってございます——あの言葉の正体は、たぶんこれだった。誰にも邪魔をされない、ただの放課後。あの人が私に贈ると決めたのは、物ではなくて、この静けさだった。
私は、隣の自分の席に座った。
水を呼んで、薄い膜を立てる。アルフォンス様の火が、膜の縁からほどけて溶ける。二色の光が、混じらないまま流れはじめた。
「……十三」
アルフォンス様が、低く言った。
こちらを見ずに、二色の光のほうを見たまま。その耳が、少しだけ赤かった。
それだけだった。飾りのない、裸のひとこと。
おめでとう、の五文字さえ、この人は言わなかった。言わないまま廊下を静かにして、何もない放課後を整えて、隣に座っている。昼の、あの飾られた祝辞とは、何もかもが逆さまだった。
私は、うつむいた。それから、笑ってしまった。声を立てずに、でも、こらえきれずに。アルフォンス様は、ばつが悪そうに視線を外して、それきり何も言わなかった。
二色の光の中は、温かかった。
朝のひと呼吸長い温もりと、この裸のひとことと。今日、私がもらったものは、それだけだった。それだけで、十三歳の最初の日は、もうあふれそうだった。
——その温かさの底で、昼の冷えだけが小さな棘のように、まだ抜けずに残っていた。
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