第5話「十三の、灯」前半①
——あの昼から、水盤の前に座るたび、私は息の置きどころを探している。
水盤の水が全部立ち上がった、あの暴発。セリーヌさんは、あれを見て、何も言わなかった。次の日も、その次の日も、何も。稽古は続いている。糸を呼び、息で細める。声も、間も、微笑も、何ひとつ変わらない。
変わらないことが、こんなに怖いとは、知らなかった。
咎められていれば、謝れた。訊かれていれば、ごまかす言葉くらい用意できた。何もないから、私は毎日、見えない何かの上を歩くように昼休みの旧図書室へ通っている。
「今日も、いい糸ですね」
セリーヌさんの声は、今日も穏やかだった。穏やかなまま、どこにも底が見えなかった。
放課後は、放課後で、いつもどおりのはずだった。
旧図書室の長机。隣の席のアルフォンス様。私が水を呼んで薄い膜を立て、アルフォンス様の火が膜の縁からほどけて溶ける。二色の光が、混じらないまま静かに流れる。昼の緊張が、この時間だけは、少しほどける。
その膜の中で、アルフォンス様が、ふいに言った。
「……で、いつなんだ」
「え?」
「誕生日だ。冬のはじめごろ、としか聞いてない」
秋の終わりの北廊下の、あの問いの続きだった。あれから、ずっと持っていたのだ。「もうすぐ」の中身を。
「……あさって、です」
答えた声が、膜の内側だけで、静かに落ちた。
廊下の足音も、遠くの談笑も、膜の外の音はぜんぶ、水の向こうに切り離されている。この日にちを聞いたのは、世界でただ一人、目の前の人だけ。そのことが、なぜだか、答えたあとから胸に迫った。
「あさって」
アルフォンス様は、低く繰り返した。それきり黙った。金の瞳は二色の光のほうを向いていて、その耳だけが、少し赤かった。
「……何も、しなくていいですからね」
「何も、しない」
即答だった。何もしない、と言う人の返事にしては、少しだけ速すぎた。
翌日から、アルフォンス様の様子が、目に見えておかしくなった。
目が合うと、先に逸れる。革手袋の指先が、机の縁をこつこつ叩いている。授業のあいだも、ときどき、何かを段取るような目で宙を見ている。
そして、ハンスさん。
アルフォンス様の後ろに、いつも影のように控えている、十七歳の従者の人。表情を変えないのが仕事のようなその人が、今朝は、なぜだかほんの少し嬉しそうに見えた。廊下ですれ違いざま、主にだけ聞こえる声で囁いていた。
「——万事、整ってございます」
風の切れ間に、その一言だけが流れてきた。それからハンスさんは、私に気づいて、深く一礼をした。いつもの礼より、ずっと深い。
教室では、セドリック様と目が合った。アルフォンス様の斜め前の席の、明るい人。目が合うと、にっと笑って小さく親指を立てる。私が首を傾げると、あわてて素知らぬ顔で前を向いた。
——ああ、話したんだ。
道筋が、ぜんぶ見える。私が結界の中で告げて、アルフォンス様がハンスさんとセドリック様に頼んで。この学院で日にちを知っているのは、その三人だけ。それがちゃんと数えられることが、なぜだか少し、くすぐったかった。
——明日、私の誕生日が来る。
冬のはじめ。十三になる。
期待をするのは、怖い。祝われることに慣れていない子が期待をして、何もなかったときのあの静かな痛みを、私はよく知っている。それに、誕生日を知られていること自体、目立たないように生きてきた私にはまだ落ち着かない。生まれた日を誰かが覚えている。それは、いない者として生きるはずだった場所に、消せない印がひとつ増えるということだった。
嬉しくて、怖い。怖いのに、数えてしまう。
あと、一日だった。
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